008 素浄瑠璃“最高の語り”

熊本県の清和村に大阪文楽最高位の太夫・豊竹嶋大夫さんの素浄瑠璃を聞きに行って来た。清和村は有機野菜を作り、東京にも出荷していることで知られているが、同時に250年にわたり村民が文楽を維持し続けてきており、この面で有名なところである。
このたび、縁あって嶋大夫さんを紹介され、この清和村に招かれ浄瑠璃を語るのでぜひ、と誘われ、ちょうど熊本のあるホテルに10点ほど当美術館の絵が納められており、それの確認もできればと考え、思い切って行って来たものである。清和村には文楽用の200人ほど入れる立派な小屋があり、何と年間260回もの公演が行われ、県内外から多数の観客を集めているという。
さて、当日は村長さんのあいさつに続き、まず村民の文楽「神霊矢口の渡し」の上演があった。この文楽の人たちは終わると農業者であったり、村の物産館やレストランのレジ係りやウェイターであって、何となく微笑ましく感じられると同時に村ごと伝統を守っていこうという姿勢に強く心を惹かれた。
ついでメインの嶋大夫さんが、元は近松門左衛門の原作となる「恋女房染分手綱」のうち、「重の井子別れの段」を約50分にわたり熱演した。
ちなみに文楽は浄瑠璃(義太夫ともいう)に合わせて人形遣いが芝居を行うが、素浄瑠璃は浄瑠璃を語るだけで人形は遣わない。したがって、語る芸だけで人を魅了しなければならないわけである。
重の井の子別れは主家の乳母となった母親が故あって別れ、今は馬子となっている子と偶然出会うが、しかし、お互いに名乗っただけで別れざるを得ない悲しい物語である。観客の多くが紅涙を絞ったが、それは話の筋によるだけでなく、嶋太夫さんの芸の力によるものであった。
久しぶりに私も感動したが、終わった後のインタビューでの嶋太夫さんの答えにさらに感動を覚えた。公演中、暑くもない日なのに汗びっしょりであったが、村長さんにそれをいたわられると、「義太夫を語って汗をかかないようでは一人前ではありません」といい、観客の中から、来年も必ず来てくださいとの声がかかると、「私は今、汗も涙も魂もみな出し尽くしてしまいました。申しわけないのですが、今、次のことを考える力は残っていません」との答えが返ってきた。
そして、いい語りをするには、なろうとするのではなく、自然に語りに出てくる人物になりきることですが、まだまだ未熟です、という。近く人間国宝にも推されようとする71歳のこの人はどこまでも芸の虫であり、謙虚であった。

>>> 一覧に戻る