アーティスト・イン・レジデンス(AQUA第44号)
神奈川県県民局くらし県民部マグカル担当課長 立石えり子

 文化芸術は人々がやすらぎや生きる喜びを見出す上で欠かせないものです。現在、神奈川県では、そのような文化芸術の魅力が磁石(マグネット)のようなって、人々を引き付け、街に賑わいを創出することを目指して、マグネット・カルチャー、略して「マグカル」という取組みを推進しています。
アーティスト・イン・レジデンスは、様々な国や地域からアーティストの方々が集まり、アーティスト同士はもちろん、地域の方々とのアートを介した交流を通じて、街に新たな魅力を創出する、まさに、「マグカル」の取組みであると言えるでしょう。
 2019年のラグビーワールドカップ日本大会や2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会には、海外から多くの方をお迎えすることになると思いますが、その際、県内各地で、このアーティスト・イン・レジデンス事業を行うことにより、神奈川の文化芸術の魅力を国内外に発信していかれればよいと考えています。
 すどう美術館須藤館長は、文化の向上、芸術家の育成・支援、そして一般の方々との交流を強く認識され、日本でも本格的なアーティスト・イン・レジデンスを実施したいとの思いで、過去2回実施されています。神奈川県でも、館長をはじめとする皆さまの豊富な実施ノウハウを教えて頂きながら、今回初めて「第3回目西湘地区アーティスト・イン・レジデンス」に共催者として携わらせて頂きました。

 実際にアーティストが作品制作を行うレジデンス期間は2週間弱ですが、その事前準備は1年程前から始まりました。
何度も重ねた打合せでは、国内外の実力あるアーティストを招聘するからには、小田原市の魅力をたっぷり伝えられるようなイベントを開催したい、アートを接点に、一般の方々にもアートの魅力を伝えたい、という須藤館長や主催者の方々の強い気持ちがひしひしと感じられ、開催期間がとても楽しみであると同時に、その一員としての任務に身の引き締まる思いでした。

 国内外から11名のアーティストが全員揃った当日、小田原市内観光が開催されました。
海外アーティストは、初めて来日する方ばかりで、美しい日本庭園や茶室がみられる松永記念館や、小田原城や一夜城を見学し、目を輝かせていました。
後々、アーティストの作品を拝見したところ、この日見た富士山をモチーフにした作品もあり、この日の記憶が、素晴らしい作品として生きる過程を垣間見た大変貴重な機会となりました。
 また、ワークショップ「世界をちぎって貼って、コラージュペインティング」では、広報の力もあってか、沢山の小中学生が参加して下さいました。
各国アーティストの持参した包装紙等の他、小田原の寄木細工の端材などを使って、自由にペインティングするもので、アーティストから子ども達に発信するメッセージはとても素敵で、「自由に、思うままに描いてごらん。決まりなんてないよ。」「すごく上手、素敵な作品だね。」など、どんな作品でも魅力があること、唯一無二の素晴らしさがあることなど、アートを通して、人として大切なことが伝わる素晴らしい場であったと感じました。

 レジデンスの意義は、芸術家の育成・支援だけでなく、アートを接点に多くの人々が文化や習慣の違いを越えた交流をし、一般の方にもその魅力を伝えることと思いますが、今回実際に参加させて頂き、それだけでない、アートの可能性を感じて感動しました。

アーティストインレジデンスと地域文化(AQUA第44号)
小田原市文化部文化政策課 松井真理子

 3回目となる「西湘地区アーティストインレジデンス」。小田原市は共催者として、会場提供や広報協力のほか、海外・市外のアーティストに小田原について知っていただこうと市内観光を手配しました。残念ながら小田原城は耐震工事中でしたが、市内数箇所を巡りました。その中でも、昭和の電力王、松永安左ヱ門によって建てられた「松永記念館」、明治36年に建築され醤油醸造業を営んでいた「内野邸」は海外の方のみならず、日本のアーティストたちの目にも新鮮に映ったようです。
 松永記念館では、茶室や庭園、松永老の居宅であった老欅荘などを学芸員さんが案内して下さいました。ちょうど寄木細工の若手職人集団「雑木囃子」による展覧会が行われており、寄木の技法を受け継ぎ、緻密な模様を作り出す職人さんたちとアーティスト、表現者同士語らい、刺激し合う機会を得ました。内野邸ではボランティアさんたちが隅々まで熱心に説明して下さり、日本古来の細部にまでこだわる工夫や旧き良きものを残そうとする思いを知りました。
 中間発表となるシンポジウム「アーティストと話そう」では、アーティストたちが作品について説明し、茶室に置かれていた止め石、日本家屋の間取り、富士山や折鶴など、この地で受けた印象から作品が生まれてくる様子を目にすることが出来ました。作品に対する想いを聞いてから作品を見ると、また違った印象を受けます。
 シンポジウムの中で「変わる」と「変わらない」という、相対するテーマが出て、作品にもそれが表れていることが印象的でした。小田原市は豊かな環境の下で育まれた長い歴史と伝統があり、それらを守る一方、地域課題を解決するために新たなまちづくり政策に取り組んでいかなければならない状況があります。変えていくものと、変化の中で失われないよう守っていくものを見極めていかなければならない。アーティストたちが小田原に滞在し、五感で感じた体験から生み出された作品は、地域文化について改めて考えるきっかけを与えてくれているように感じました。

すどう美術館の活動  佐部利典彦(AQUA第44号)

 銀座から小田原に移転したすどう美術館は、出前美術館、海外のアートフェア、東日本げんきアートプロジェクト、アーティスト イン レジデンスの企画、実施等、さらに多彩な活動を多才な人達と繰り広げてきた。どの企画もゼロからの立ち上げで、とりわけ東日本げんきアートとアーティスト イン レジデンスの活動は記憶にも新しい。
 東日本げんきアートの活動の立ち上げでは副館長が中心となり、被災地の関係機関に連絡を取り、早期に視察に訪れ、その企画を練り、実行していった。アートの活動を行うのに、少し時間がかかるとみると、現地のニーズを考え、湯たんぽや本を集めて、現地に送ることも行った。その後もさらに副館長は綿密に展示計画や広報計画を立て、必要とあらば、どこにでも連絡を入れ、宿泊先も確保し、展覧会、ワークショップ、コンサートなどを行ったのである。
 あの瓦礫の中での活動とあの宿泊先での雑魚寝の大変さは忘れることはあるまい。アートにはいろいろな可能性があることが現地での様子を見て、私の中で確信となった活動であった。この活動の中で、すどう美術館のメインコレクションである菅創吉の展示を行い、館長の講演があった。ここはすどう美術館だと私は思った。
 アーティスト イン レジデンスでは館長が企業等から協賛を頂くのに、奔走されていた。ひとえに参加作家やこの活動に関わる人達のためにだ。ヨーロッパ等のレジデンスでは、強力なスポンサーか公的な資金、制作場所、食事場所、宿泊所、展示場所が確保されて行われているところが多い。日本でも90年代に入ってから各地でアーティストインレジデンスが行われてきたのだが、その条件を満たしていて万全の状態で活動ができているところはないのではないかと思う。
それでも小田原のレジデンスでは多くの方の協力のおかげで、小田原らしいレジデンスになっていると思う。私は、実行委員会の委員および作家として、今までの3回とも参加させていただいた。やはり作家としての参加が充実していた。普段の日常を気にすることなく制作に没頭し、世界の作家と意見をたたかわす。そして何が生まれてくるのか。アドレナリンが出まくるのである。アドレナリンが出まくるのは、実行委員での参加でもそうである。事実、前回のレジデンスが終わってから私は制作が進んでいる。
 小田原のレジデンスでは、それを行っていた地域全体がすどう美術館になったと思った。すどう美術館の真骨頂は「おもてなし」なのである。その思いを汲んで、企画の実現へと奔走していたのは高橋学芸員である。展覧会以外に数々の仕事を併行して、継続的に行ってきた。ただただ感謝しかない。あーそんなことを書き連ねてきたら泣きそうになってきた。我々は、すどう美術館の活動のおかげで、ほんとによい(?)人達と出会うことができ、おかげで孤独な制作を続けることができているのである。

富士山と尊徳記念館 杉本裕子(AQUA第44号)

昨11月、小田原のアーティスト インレジデンスに招待され、10日余りの小田原滞在をした。いつまでも忘れがたい思いがこみあげてくる。
おもいを書こうとして、何枚もの紙をすてて・・・。ほんとうにみなさんにありがとうを伝えたい。あの富士山の見える広いフロアーで、お昼にお弁当をみんなでいただいた。

 1日の過ごし方―今日何をして・・・そして一気に来たのです。
人に会いたい、絵を描きたい、見てほしい、認めてほしい、海外の人ともっと知りあいたい、小田原であそびたい、作家同志知りあい友達になりたい、おみやげ買いたい、カラオケとか遊びたい。結局不器用なメンバーで、それぞれが全部の中で疲れてしまい、逃げ出したくなりました。
 もとの地味なくらしが恋しくなって・・・。もともとひとりでさみしく生きてきた不器用な人間です。だから絵を描いているのです。あの時からその事がよくわかって私達はみんなのことが、互いのことが、大好きになりました。不器用な要領の悪い、やさしい人間の集まりだったのです。どちらかというと、少しひかえめで、遊んだりできなくて、自分自身のことへもテキトウで・・・。ガンガン自分勝手に作品をつくる事もあったのでしょうにそういう人も居なくて、まわりに気を使いながらささやかに小さく創作をしました(助けあって)。あまりにも毎日経験したことのないような事ばかり、人にしてもらってばかり・・・。
 最後の日にすどう美術館に飾られたみんなの絵を見た時に、上品さを感じました。
「私が」「私が」ではなくて、とてもひかえめで、目立たない様にそこに居た。みんなの画。
それがARIOを通して私達がみなさんから学んだことではないでしょうか。
大きくて静かに人のために働く。気がつけばこうしてここに全てそんな生き方のおくりものをいただいた。

Impression of residencey Kate Ali (USA)(AQUA第44号)

The ARIO residency was an inspiring and culturally rich experience. It was a privilege to have worked next to artists from both Japan and the world at large. I will always remember Odawara, Japan as a place full of kind people, beautiful scenery and delicious food. Many thanks to Mr. and Mrs. Sudoh, the Sudoh Gallery staff and their volunteers for all that they did to make the residency a success.

展覧会を終えて 田沼利規(AQUA第43号)

 ただいま、と言える美術館ができた。2週間の展示を終えて搬出の車を運転しながらの帰途、そんな言葉が浮かんだ。そう思わせてくれる館長夫妻の人柄については、既に他の方々がたくさん書かれているので私は控えておくことにする。
 今回の展覧会は自ら「20代の回顧展」と銘打って、大学の卒業制作まで引っ張り出し、自身の歩みを一旦俯瞰する試みであった。通常、作家は新作を発表することが一番大切だし、展示スペースの都合もあってこのような形の展覧会を開く機会は稀だと思う。
すべての作家がそうであるように私自身もまた、その時々の自分を全力で作品に宿してきたつもりである。昔の作品を前にすると、辛かった時期や苦い経験を思い出すことも多々あり、過去の日記を読み返すようで気恥ずかしい。また、私の作品は白黒のものと色彩のものとがあるので、同じ空間にそれらを並べるとパッと見、作者が別人の印象を与えてしまうことが多い。幸い、すどう美術館は展示室が3つに分かれているので、部屋ごとに小さなテーマを設けての展示を考えた。しかし、どの作品も根底に流れるものは等しく、私の叙情性である。あるお客さんから、「どの作品にも生命が流れていますね」と言われた時は、決して声高ではない自分の絵も、確かに観る人に語りかけていたのだと実感することができた。
 期間中は夏休みだったこともあり、地元の中学生が多く訪れた。美術館レポートという宿題のためなのだが、インタビューを受けたり、自作の模写をされたりと、身体の内側がくすぐられるような変な感覚であった。少し驚いたことは、一人で訪ねてくる中学生がほとんど居なかったことだ。友達や家族連れが大半で、母親が代わりに宿題をしているように見受けられる場面もあった。口煩い感じもするが、作品を鑑賞することは自分自身と真正面から向かい合うことでもある。過度にSNSが発達している現代だからこそ、鑑賞を通してゆっくり個と向き合ってもらいたいという思いが生まれた。
 暖かな人の心が支える世界一小さな美術館、すどう美術館。きっと私が次に訪ねるときも、入り口の引き戸を開けてただいまと入れば、館長夫妻はお帰りなさいと迎えてくれるのだろう。

すどう美術館と私 石田郁夫(AQUA第43号)

 私は新聞の配達をしているが、取っていただきたいと皆さんにお願いもしている。
私が新聞をお願いする為にすどう美術館を訪ねたのは何年前だったか。もう6、7年前になるだろうか。
爾来、遠慮もなく客の居ない時を見計らって美術館にお邪魔している。私は絵を観るのが好きであり、これまでいろいろな人のたくさんの作品を観せていただいてきた。
お邪魔した折は絵のことは勿論、昔の懐かしい映画のことも話したりする。そして昨今の世相を館長と二人で憤ることもある。だから、ついつい長居をしてしまう。辞する時、また迷惑をかけてしまった、と反省すること度々である。
何故か美術館に行くと癒される。作品に接していることも勿論あるだろうが、須藤館長の人間性にあるのだろう。だからついつい長居をしてしまう。須藤館長は話している時も何時どこで会っても穏やかで変わることがない。私は館長は大人(たいじん)だと思っている。穏やかでいるということは、出来そうでなかなか出来ないことである。徳をそなえている人でなければ出来るものではない。私などは、温厚そうに見えるらしいが、気が短くて、とても人の好き嫌いが激しい。館長を見習いたいと思うのだが、とても無理である。
性根の悪い人間は絶対に相手にしない。新聞の部数を減らしてでもそのような人間とは関わりたくないのである。
だから今読んで頂いている客は皆んないい人達ばかりである。
絵も同じである。上手下手を言っているのではないが、品格のない絵は観たくないのである。須藤館長が選んだ絵には品格がただよっている。だから私は、客の居ない時を見計らってお邪魔をする。
小田原の富水にこんなところがあるのは嬉しい。この隠れ家のような場所がいつまでも続いて欲しいので館長の健康を願うばかりである。

竹橋啓一☓加藤肇司展(5月12日~24日)を終えて 竹橋啓一(AQUA第42号)

  すどう美術館には駅から三度も人に聞いてタドリ着きました。居場所を昧ましながらそこに確と在る、というのは館長さんのイメージと少し重なると思うのは私だけだろうか。
 高校卒業以来の畏友である加藤肇司さんに誘われ、現代的な作品ではないが同じ時空に居るのだから、と単純にOK.二十数年ぶりの再会となる、全て加藤さん任せの展覧会を開きましたが、加藤さんは大変だったと思います。
会場では加藤さんの絵を横目で見ながら、自分の絵は時代とズレているナーという思いでした。足を地に着けて頑張っている加藤さんは「本物」でした。
 私が絵を止めてから十年程経ちますが、加藤さんがステキな友人達や須藤夫妻に囲まれての活動は、充実したものであったに違いないと思われました。その人々の中に入っての会話は、人との交流の少ない私には、短時間ではあったたが楽しく刺激的で、今後の課題などを示唆して呉れました。私の少ない知恵では、「現代」を相手にするには荷が重いけれど、ほんの少しでも「現代」と関われたら良いのに・・・。
 色々と失敗して、ならば、いっそのこと昔の落描き時代に戻って楽しく描こう、というスタンスの作品で、意味はあまり無く、全く意味がなければもっと良いのですが、そのようなモノは不可能なので、今のまま目に映ったモノを描いて行こう、という所です。
帰り道も迷ってしまい、高速道に上るのに一時間近くかかり気持が凹みました。ナビを装着していない車での走行は、自分の生き方に似ているナーなどと思いつつ七時間かかって無事富山に帰着。今までで最も長いドライブで、シッカリ身にこたえました。
 田舎で平凡に暮らしている私には今回の展覧会は、疲れたがとても良い思い出となるものでした。最初で最後のつもりでしたが、又の機会があれば良いと思っています。

心と身体  利根川佳江 (AQUA第42号)

 私は立体作品を中心に制作しています。抽象的で有機的な形が多く、素材は発砲スチロールや金属に紙粘土をつけたり、紙を貼ったり様々です。立体作品なので、自然と空間を意識したり、身体感覚を大切にしながら作っています。
 私は以前から気功太極拳をやっているのですが、太極拳がきっかけで身体を通して感じることに興味を持つようになりました。太極拳は呼吸に合わせたゆっくりとした動きで、心身共にゆったりと穏やかになります。心と身体は繋がっていると実感します。太極拳を始めてから作品も変わってしまいました。
 1年程前から以前からやってみたかったベリーダンスも始めました。ベリーダンスは歴史は古く、古代、豊穣祈願や子孫繁栄のための儀式で踊られていたのが起源という説もあり、子宮の踊りとも呼ばれ、女性の身体に合った踊りと言われています。また女性が女性である事を謳歌する踊りであるとか、女性性を解放する踊りとも言われ、実際踊ってみると、言葉にするのは難しいですが、身体の内側から生き生きとしてくるような、自分自身に戻って行くような感覚で、レッスンが終わった後は心身共にすっきりとして何とも言えない開放感と幸せな気分に包まれているのです。
 先日発表会があったのですが、面白いと思ったことがあります。ダンスはアートの作品と違って自分で自分が踊る姿を見ることができません。レッスンの時は鏡で見ることはできますが、本番では自分がどんな踊りをしたのか全くわからずに終わります。わからないのでかえって気が楽ですが、不思議な体験でした。
 それと、ダンスは上手い下手には関係なく踊る人の個性がストレートに出るものだと思いました。同じ踊りをしていても踊る人によって全然違って見えます。面白いです。
 ダンスもアートも、根本では通じるものがあるように感じています。

 

『大磯アートハウス』オープンに寄せて 
   湘南アートベース (代表)朝比奈賢(AQUA第41号)

 すどう美術館と出会って13年目になります。館長・副館長は25年前に自宅を開いて以来、収集した美術作品を公開するだけでなく、様々な作家に発表の機会を提供し、社会活動を続けられてきました。いつもプロジェクトをご一緒させていただいて、お世話になってばかりでしたが、それだけではいけない、自分から行動を起こさなくては、と企画したのが昨年の『小田原アートホテル』でした。今年も、その延長上で新しいアイデアが生まれています。須藤夫妻の活動をみならって、自宅とアトリエを開放する『大磯アートハウス』構想です。
 みなさんにとって、楽しい!わくわくする!それはどんな時ですか?そのような時を思い起こしてみると、何らかの「表現」につながっているように思います。私のすまいには自作だけではなく、気にいった作家さんの作品も集めて飾るように心がけています。また、アンティークなども雰囲気を出すのにかかせません。古いものだけだと暗い感じがしてしまいますが、うまく現代美術作品が中和しておたがいに引き立て合い風格がでます。
 傍から見たときに、この環境があたかも自然に作品を産み落としてくれるように見える内的動機づけを行っています。別の言い方をすると、誰もがこのすまいに足を踏み入れたときに、何かを「表現」してみたくなるスイッチの役割を果たしてくれればいいな、と考えています。  「表現」とは、心の内にあるものを、感じとられるようなかたちにして表に現すことです。うまい・へたは関係なく「きもちよい」「ここちよい」と感じ、その体験をたくさん重ねることが、「生きるよろこび」につながると信じています。
 『大磯アートハウス』では、来場者にご希望でミニワークショップをおこないます。この場所で、心に思い描いたことを自由に「表現」し、自分なりに描いたそれらの作品を自宅へ持ち帰って飾っていただこうと考えています。お茶を飲みながらゆったりと時間を過ごしていただけたら嬉しいです。お気軽にお越しください、お待ちしております!
(毎週金・土・日、11:00~18:00、入場おとな¥500、こども¥300〈ミニワークショップ、ドリンク付き、こども料金は東日本げんきアートプロジェクトの活動資金になります〉詳細はチラシ、もしくは検索【大磯アートハウス】)

絵を描く自分がすべき仕事 金子 牧(AQUA第41号)

 「絵を描く人」になろうと思っていたにもかかわらず、美術教室の仕事を始め、‘子どもの美術’に夢中になり、負い目を感じながらも、教師業を優先した数年がありました。 子どもの絵の、今しか描けない懸命で無垢な表現、そこで発散されるエネルギーに魅かれ、子どもが絵を描く事の真の意味を知り、美術をきちんと伝えられる教師になりたいと真剣に思っていました。  子どもの多くは、絵を視覚的に描いていません。太陽をあの赤いニコニコ顔で描く、あれが象徴的です。「絵本やイラストでよくみられるから」それも大いにあるのでしょうが、どこかで見たその太陽をストンと心に落とし、当たり前のように描きます。
テクニックや見栄えではなく、無意識で表れる「心の声」である事に、尊さを感じていました。
 「すっかり先生だね」といわれる事に少し満足する半面、絵を描く時間がない事への焦りと不安を、押し隠せなくなってきたのが、5年程前です。「若き画家たちからのメッセージ展」を知り、はっきりしたコンセプトも見つけられないまま、すどう美術館の館長との面接を受けました。館長から絵は画家の内面的なものが大切だ、というお話をうけ、「絵を描く行為」に対して自分が大切に思っている事が明確になったのを覚えています。
 その後、すどう美術館での個展 スペインへのレジデンス、東日本げんきアート 等など。すどう美術館の活動に多くかかわらせていただき、沢山の学びを頂きました。「美術教室の先生」と「絵を描く自分」を繋いでくれたのは、すどう美術館でした。「絵を描く自分」がすべき仕事として、「美術教育」を行なっている事を大切に思えるようになりました。  子どもの絵の素晴らしさは、ありのままの表現である事。そしてまた、館長の選ぶ絵も、表面の美しさやうまさではなく その奥の画家の内面的なものがしっかりしていて それがこちらに伝わってくるもの(いちろー語録より)
 すどう美術館に魅かれ集まる人たち、作品。そこにあるのは、子どもが美術を大好きなのと同じ「自分である事を大切にする価値観」のように感じます。「絵を描く自分がすべき仕事」を一途に行なっていきたいと思います。

すどう美術館との出会いと最近の私。 大矢雅章(AQUA第40号)

 すどう美術館とのおつきあいは、第2回若き作家からのメッセージ展で賞を頂いたことからスタートして17年になります。この間、美術館とのつながりはいろいろありますが、その一つとして、館長の著書「世界一小さい美術館ものがたり」の文中に自作を掲載して頂いたのは、思い出深い出来事です。
 さて、出会った当初から最近まで、版画や立体作品の制作発表を中心にして過ごしてきましたが、現在は、発表活動を一時休止して、博士号の取得のために多摩美術大学に学生として在籍し、子育てと仕事をしながら論文執筆や研究を中心にした生活を送っています。
 博士号の取得に挑戦することになったのは、20代からの目標の一つだったこともありますが、いろいろ研究している銅版画の制作を、一度論文として纏めてみたいと思ったからです。在籍する博士課程では、論文と作品両面において、さまざまなジャンルの教員(評論家・デザイナー・作家など)と、各国から集まった学生達に、客観的かつ論理的に自分の作品をプレゼンテーションしながら学位を取得していきます。本来、言語化出来ない作品を、さまざまな視点から分析し客観的に文章化し、述べることは大変困難なことです。しかし、制作者には一見不要に思われる、このような複合的な訓練は、作り手の技能と論理双方を刺激し、表現にさらなる広がりを生むのだと感じています。
 作品を作ることと、論文を書くことは、全く別のことのように思われがちですが、本質的には自身に深く向き合うことには変わりません。論文に向き合ってから、これまで漠然と認識していたことが論理として明快になってきました。自身の追求する銅版画への明確な指針が、いままでより強く見えてきたように思います。課程修了まではあと一年。新しい作品と論文執筆で、これまで以上に忙しい日々が続きそうです。

創作おもちゃの「みて・あそんで・つくる展」 
           日本おもちゃ会議 久保 進(AQUA第40号)

 5月1日〜10日、日本おもちゃ会議の「みて・あそんで・つくる展」をすどう美術館で開催できることになりました。日本おもちゃ会議は、創作おもちゃ作家、おもちゃ屋さん、保育士さん、学校の先生などおもちゃが大好きな人たちでつくる全国組織です。
 すどう美術館とは、2004年に日本おもちゃ会議の有志が銀座で展覧会を開催したのが始まりでした。すどう美術館が小田原に移ってから会場は変わりましたが、毎年のテーマを須藤館長、副館長さんにお願いして今日に続いています。
 このようなつながりがあって、私たち日本おもちゃ会議スタッフは、開催のお願いにすどう美術館に伺ったのです。嬉しいことに、須藤館長から共催の提案をしていただけました。そして小田原市役所への後援依頼に須藤館長も同行してくださいました。
 小田原は寄せ木細工など木工が盛んな都市です。そのこともあって、私たちの展覧会にも関心を持っていただけたようで、小田原市も共催してくださることになりました。
 「みて・あそんで・つくる展」に展示するおもちゃ作家は21名。ワークショップも5/2〜5/5の5日間に10講座を実施します。
 今の時代、子どもたちの生活にもバーチャル(仮想的な空間)な世界が広がる中、直接自分の目で見て、実際に手を使って遊んで、工夫して作る機会を少しでも増やしていくことが大切です。様々な分野で活躍する日本おもちゃ会議の会員による楽しい展覧会です。この展覧会を通して、親子が美術館に気楽に足を運ぶきっかけになればとも期待しています。
 須藤館長は「アートは人間の心の糧としてなくてはならないもの」と常日頃に言っておられます。私たちも「みて・あそんで・つくる展」で小田原市の子どもたち、大人の方々に“心の糧”をいっぱい用意したいと思っています。
 是非、お出かけ下さい。

すどう美術館と私 泉田洋子(AQUA第39号)

  初めて、友人に連れてこられて来たすどう美術館は、小さな駅を降りて、田園に囲まれた場所にありました。
 中に入ると、そこには、心地良い空間を残して、数枚の絵が飾られていました。抽象画、現代美術にこだわられていて、この絵は一体何を語ろうとしているのだろう。
 私は、その時から絵との対話が始まり、引き込まれていきました。そこで、私は、絵を観ることに「答え」はなく、「感じる」ことが大切だと、気付かされました。そして、絵を観る時間が、自然と心を掘り下げて、心の中の泉を豊かにしてくれている、そんな気がするのです。
 音楽で云えば、ここに飾られている絵は、即興音楽や、バッハで云う無伴奏のような世界。
 私は朗読を生業にしていますが、詩の世界と似ているような気がします。
 枠にはまらず、絵が「今ここにある」、それはまるで、館長さん御夫妻の自由な生き方とだぶっているようです。
 絵を観た後の歓談もまたとても豊かな時間が流れています。
 本物を見る目とはどういうことか、未熟な私の心の隙間をそっと満たしてくれます。
 決してぶれることがなく、燻し銀のように光り輝くものとはこう云うものだと、菅創吉さんの絵が語っているようです。
 私は、そんなすどう美術館での時間の積み重ねの中で、本来、絵を楽しみ味わうことの価値に気付かされました。
 銀座でなく、この富水に溶け込んで、本物の絵があると云うこと、それはとても意義深いものだと思います。
 実りの秋、絵を観る時間を大切にして、心の中に豊かな物を貯えていきたいと思うこの頃です。

三次元の蟻は垣根を超える 柏木照之(AQUA第39号)

 今年もまた『三次元の蟻は垣根を超える』を開催出来る事を嬉しく思います。この展示会を始めたきっかけは、須藤館長・副館長との出会い、「工芸と芸術、職人と芸術家の違いは何だろう?」という疑問からでした。
始まりはおよそ3年半前。東日本大震災の影響で一度は延期になりましたが、程なく改めてスタートしました。この時は『ためしに垣根を超えてみる』というタイトルで、私たちの作る工芸品と須藤館長のコレクションである現代アートとの対比展示を行いました。
その後、回を重ねる毎にコラボ展示や共同制作などを行う中で、芸術とは?工芸とは?と思いを深めて来ましたが、ここに来てまた新たな疑問が出て来ましした。

  『超える垣根は有ったのだろうか?』

 芸術家も職人も「何か」を生み出します。それは素材も製法もそれぞれです。形すら無いものも有ります。表現方法は千差万別。でも生み出す心に違いは有るのでしょうか?その答えの一端が会場で表現出来ればと思っています。

三次元の蟻は垣根を超える 太田 憲(AQUA第39号)

 今回の展示会「垣根を超えてみるⅢ」では 今までにない取り組みが始まろうとしている。
寄木細工グループ雑木囃子5人、一人ひとりが朝比奈さんの作品と自身の作品とを融合させる。
・互いのもつ力を引き出し合うようにして垣根を越えてみる
・普段では決してできないものづくりをしてみる
・そのためには互いのプロセスを知ることも
・ともに活動する意義を深めよう
朝比奈さん、雑木囃子メンバーでの話し合いは夜遅くまで続いた。
日頃、「ものづくり」についてメンバーと語り合うことはないだけに皆との語らいは新鮮だ。
印象深かった朝比奈さんの言葉がある。
「独自性が絵の価値。本当の新しさとは、自分の中から生まれる。イメージしたものではなく、心の底のものを。」
今までの僕の寄木といえば、使い道が決まっているものばかりである。
そこには使いたくなる寄木細工として、寄木細工に用途を持たせることで、より多くの人にその魅力を伝え、身近に感じてほしいという願いがある。
でも今回ばかりは 機能という型をとり払ってみよう。
朝比奈さんのような「心の針に従って」「直感に従って」創造をする、独自性を追求したものづくり。
実験してみよう。意味をなさない寄木細工。力をもった物体。
自信をもってつくってみる。
その先に新しい寄木の形が生まれるかもしれない。
ワクワクが止まらない。

生き抜くための『術』 大木みどり(AQUA第38号)

  精神のバランスを崩し病んでしまう人、生きるのを断念せざるをえない人、私はそのような人達を10代のころから間近に見てきたのですが、今の私の見解では、彼らをとりまく社会の価値観が違うものであれば、このような事態は決して起こらなかったと信じています。

 社会でまかり通る一般常識、価値観は一部の人間の想念と都合によって作り出されたもの、と私はずっと以前から捉えているのですが、それでも、それらをもとに人を評価し決めつける「世間」というものは私にとって恐ろしい存在でした。枠から外れたものに「異常」「病気」「不適応」などのレッテルを貼って差別し排除する存在、それは私たちの社会生活の中に深く食い込んでいます。

 18年前、私は生まれてはじめて日本を出て異国で暮らし始めます。周囲の反対を無視し、当面必要なお金だけ稼ぎ、不安はありましたがともかく出発してしまいました。オーストラリアの先住民アボリジニーのアートに興味があることを渡豪理由に挙げてはいましたが、当時置かれていた環境からの脱出が一番の目的でした。周囲からの圧力に苦しみ、押しつぶされそうになっていた私を生き延びさせようとする大きな力が私を突き動かした、と言ったほうがいいかもしれません。これしか自分が生き延びるすべはなかったのだと今でも思います。

 7年間に及んだ豪州留学から帰国して会社勤めを10年間続けた後、新たな道に進む準備をしている今の私にとっても「世間」や社会の一般常識というのはまだまだ恐ろしい存在ですが、以前のような絶対的な恐怖は感じなくなりました。異なる社会で暮らし、異なる文化について学び、異なる価値観に日常的に触れながらアート作品の制作に自由に取り組んだ体験が、私の内部に潜んでいた生き延びる力を引き出し、伸ばしてくれたのだと思います。自分にとって価値あるもの、大切なものを表現することが、降りかかる困難に打ち勝って生きる力と気概を与えてくれたのでした。

 今回4ヵ国を回って作品をつくるという体験をしてきたのですが、私は、そこで出会った人や動植物が、その土地々々の厳しい環境と折り合って生き抜いている姿に強く心を打たれます。バイタリティーを奮い起こし、生き抜くために試行錯誤を重ねる中で生まれてくる「術」のようなもの。―その多様性に触れる中で、私はこれこそがアートの原型ではないかと、あらためて感じています。

そんなこんなで  立川志らら (AQUA第38号)

 この間、館長と昼間っからワインを飲みました。ほろ酔いで帰りしな、館長と2人っきりで飲んだのって、15年近い付き合いで初めてだと気付いた。

 そもそもは、若手落語家を何とかしようと主戦場を探して下さった方に、銀座時代のすどう美術館に連れて行かれて、「あ、どうも。須藤です」からお付き合いが始まった。

 その場で、立川談志の一門ではあるが、厳密には師匠が異なる4人で、年4回の「四人の真剣勝負」なる落語会の開催が決定。毎回の終演後の打ち上げでは、館長は4人の中心に座ってるが、話の中心にはならず、ニコニコして飲んでた。

 ある時、落語会の後片付けが、石川県在住の作家さんの搬入と重なり、館長が紹介したがために手伝う羽目になったが、その縁で石川県での落語会の開催が決定。今では石川県を年間で最も多く訪れるほど広がりを見せてるが、初めての時は、気付いたら館長も同行してて、ただ落語聴いて笑って、毎晩一緒に飲んでた。

 館長の本の出版記念パーティーでは、そこそこ館長に悪態ついたスピーチなんかした後、二次会では隣に座って飲んでた気がする。

 銀座から富水に移転した際には、柿落としみたいな流れで落語会をやることになり、終わったらそのまま飲み会になって、「変わった造りの家ですね」とグラス片手にウロウロ飲み続け、決してご近所さんじゃないのに、私はどうやって帰宅したかは記憶がない。

 そんなこんなで、今回すどう美術館を訪れたのは、連日の副館長のお見舞いで、館長が弱りかけてるだろうと思ったから。

 少し緊張感持って、「こんにちわ~」とスリッパ履かずに上がったら、館長はトイレに入っており姿は見えず、「は~い」と迎えられ、心配するのはやめた。

 形だけのお茶を飲み干したところで、「飲みますか?」とワインボトルとグラスを持ってきた館長に、「そのつもりです」と答えた私。ちょうど赤ワイン1本飲み干してお開きになったけど、おつまみは館長が納豆おかきを1つ食べただけ。

 館長、今度は副館長に美味しい料理作ってもらって飲みましょうね。

では、また。

平塚市美術館学芸員 勝山 滋(AQUA第37号)

作家にとってますます厳しい時代といわれるなかで、「若き作家たちからのメッセージ2014」は貴重でユニークだ。作家にとって自作を見てもらう機会が必要であるし、出品し批評をうける経験は大きな糧になる。

現在平塚市美術館で開催中の「石田徹也展-ノート、夢のしるし」(~6月15日)を企画し、こうした思いを改めて強くした。石田は73年に焼津に生まれ、2005年に31歳で他界した画家である。一見多くの受賞歴に恵まれて見える石田だが、イラストレーション系からファインアート系へと進んだためか双方の世界から陰になってしまって、生前はカップラーメンで糊口をしのぎ海外で発表する夢を持ちながら早世してしまった。海外のギャラリストが嘆息し賛辞を送っているのを見るにつけ、なぜ生前に国内で評価がなされなかったのかと残念で仕方がない。

「若き作家たちからのメッセージ」には、こうしたジャンルの垣根がない。買い上げや展示の機会など作家の励みになるし、アカデミックな美術評論家が選定する賞でなく須藤一郎氏の矜持をもとに選ぶところに魅力がある。様々な角度から作家を発掘する可能性がふくらむからである。

さてこの作品は「引き出し」(1996年、静岡県立美術館蔵)という。サラリーマンに扮した石田が会社の机の引き出しを開けると、そこにはもう一人の石田が横たわっている。なんと引き出しは棺桶であって花が手向けられ、故人が好きだった車や電車のオモチャを納めている。なにを意味するのかと目を上に向けると彼の椅子に手をおく上司らしき人が見えてくる。左手の握りこぶしも威圧的だ。石田はサラリーマンの経験はないが、社会のなかで悩み苦しむ現代人をサラリーマンの姿に託して描いており、見るものの共感を得ている。こうした作品も、ある公募展での受賞をきっかけに描かれ、花開いたものだ。

 受賞といえば、一般書店で販売されている石田徹也展の図録も美術館連絡協議会カタログ賞を受賞することができ、大いに励みになっている。展覧会で作品もごらんいただき、図録もお手にとっていただければ美術館人としてこのうえない喜びである。

8月にはすどう美術館でこれから花開く作家の作品を拝見できるひとときを持てることをいまから楽しみにしている。

小田原アートホテル2014『わたしの一部屋』展を企画して 
湘南アートベース(代表)朝比奈 賢(AQUA第36号)

…なんだかやれそうな気がする…

と心の中で微かに針は振れ、その囁き声のような直感は最後まで胸の深い部分に横たわっていました。私はその感覚へ、ことあるごとに立ち戻り信じ続けました。

すどう美術館主催の小田原アーチストインレジデンス最終日、国内外の作家が滞在する「ホテルグリーン」のオーナー櫻井泰行さんから、「このビジネスホテルをつかってアートイベントをやりましょう!」と声をかけられました。ちょうどその頃、いつも身を切って若手作家を育てている須藤館長・副館長の恩に報いるには、お世話になっているだけではダメで、自分が主体となって行動していくしかない、と考えていました。その〈考え〉と〈直感〉が一致し、私はその場ですぐに「はい」と返答しました。

しかし、実際にアートイベントの企画をするということは、思っていた以上に大変なことでした。アイデアが面白いものでなければならないのはもちろんのこと、先に何が起こるかを想像する予測力、実現するための現実的な金銭感覚などが要求されるからです。どう決断していいか分からず、企画が暗礁に乗り上げそうになったとき、いつも先を見通している須藤夫妻は温かく手を差し伸べて下さいました。そしてその判断は常に、このイベントに参加する相手を本位に考え抜いたものであることに驚かざるをえませんでした。というのは、一般的に、人(自分も含めて)は大変な状況になればなるほど、無意識に自分本位な選択をしてしまいがちだからです。難しい状況でもゆとりと思いやりのある考え方に、改めてふたりの生き方の本質を見たように思いました。

すどう美術館をはじめとして、たくさんの方々にご協力いただき、『小田原アートホテル』はなんとか実現することができました。3月の3連休、老若男女問わず800人近くの来場者がありました。24名の作家がホテルに滞在し、空間を作りこむことで、敷居の高いギャラリーとは違う、各作家の部屋を訪ねて遊びに行くような、身近な関係が築けました。そこで生まれた多くの対話は、来場者と作家のどちらにとっても新鮮な発見をもたらしたようです。そのことは、アートホテル全体に漂うある種の高揚感から伝わってきました。そして、「楽しかった」「また是非やって欲しい」という多数のご要望を頂きました。予想以上に多くの作品を販売できたことも成果です。文化の裾野を広げるには日常にアートがかかせないからです。きっと気に入った作品を持ち帰って住まいに飾っていただけていることと思います。館長がいつもおっしゃっている『アートは心のごはん』という言葉を、すこしでも多くの方に実感していただくことができるよう、今後も活動をしていきたいと思います。

活動詳細はホームページ:【検索】湘南アートベース

3つの「あー」に会う旅 手塚潔(AQUA第36号)

 「アート」に会うために旅をするのが好きだ.それは,東京で見逃した展覧会を追いかけて行くのもいいし,その場所へ行かなければならない特別なイベントに惹かれて見知らぬ土地を旅するのもいい.前者は地方都市の美術館を始めとするファシリティやコレクションの状況を知る機会になるし,後者は交通機関を調べたり周遊ルートを考えている時からある種の祝祭に参加する気分になる.ホワイトキューブのような無機質な空間で作品を鑑賞する純粋な経験とは異なり,やはりそのフィールドでなければ成立しえない作品に出会えるのがアートを旅する醍醐味だ.例えば「越後妻有(1)」における菊池歩「こころの花(2)」やアンティエ・グメルス「内なる旅(3)」など,風土や植生に依拠した作品に出会えることは忘れがたい経験となる.

地方の美術祭はしばしばレジデンシャル・プログラムを伴うことが多いので,必然的に公開制作中の「アーティスト」にも会うことになる.作品と向き合うアーティストの姿は,時にはプライドと不安が交錯するような生身の人間が露呈していて,都会のギャラリーで出会う姿よりも魅力的だ.その意味で,昨年の「原始感覚(4)」における佐藤香「香の間(5)」は愛着のある作品と言える。作家が髪の毛まで泥だらけにして刷毛を振るっていた姿が重なってくる.「アートは赤ちゃんのようなものだ」とは北川フラム氏の言だが,作品が産まれ出ずる時を共有してしまったということは,鑑賞者にとっても特別な責務を負うことなのかもしれない.

展示会場となる場所は時に建築家が個性を競う公共施設であったり,また固有の文化に育まれた歴史的建造物であったりする.従って「アート」に会う旅はまた「アーキテクチャ」に会う旅ともなる.SANAAの「金沢21世紀美術館」は有名だが,伊東豊雄の「せんだいメディアテーク」や磯崎新の「セラミックパークMINO」も好きな建物だ.また神奈川県立近代美術館における「シャルロット・ペリアン(6)」など展示テーマと建築が相関している時も面白い.

「すどう美術館」への小さな旅も,これらの旅と同じベクトルに乗っているのかもしれない. (1)http://echigo-tsumari.jp/
(2)http://echigo-tsumari.jp/artwork/flowers_of_our_minds_precious_moments
(3)http://echigo-tsumari.jp/artwork/travelling_inside
(4)http://primitive-sense-art.nishimarukan.com/
(5)http://primitive-sense-art.nishimarukan.com/sa_artist2013.html#kaori
(6)http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/perriand/

I’m happy  峰尾大介(AQUA第36号)

 ソーセージの下ごしらえ,豚肉を挽かなくてはならない。さっき鶏を挽いたのでチョッパーの目を替えなくてはならない。これがかなり面倒。なるべく取り換え作業はしたくない。頭の豆球が光る。夕方、鶏挽きの注文が2kある。チーズ巻用の鶏肉の整形をすればもしや2キロくらい端材が出るのでわないか。それを挽肉にすれば無駄なく消費できるのではないか。その目論見はドンピシャリとはまった。Vamos!と叫んでガッツポーズ。かなりスケールの小さなハッピー。なんてったって取り換え作業一回得した。
仕事とはハッピーの源ではないかと感じている。人は母親が倒れたから、お父さんが死んだから、旦那が死んだから、子供が死んだから不幸になるのではない。そんなことは誰にでも降りかかる。不幸とは自分が不幸になったと思うことなのだ。可哀そうがられるのが一番の不幸だと私は思うのだ。昔は幸せだったと思い出す暇がないくらい仕事がある現在は不幸だと思う暇がないくらい幸せなのだ。

ARIO2所感 小田原市文化部文化政策課 白政晶子(AQUA第35号)

 2013年10月、第2回目の「西湘地区アーティストインレジデンス」が、すどう美術館主催、小田原市の共催で行われた。小田原市は施設の提供や広報面で協力させていただき、私は市の担当として関わった。レジデンスには、年齢も性別も様々な10人の造形作家(ヨーロッパ5人、日本5人)が参加。制作と視察、地域交流プログラム(ワークショップ、シンポジウム、コンサート等)を10日間でこなす、ハードだが充実した内容だ。
 アーティストは初日から集中し、制作はスムーズに進んだ。結果として平均5~6品も制作し、彼らの集中力と作家魂に感服した。
海外作家は全員、日本初滞在だったので、見るもの、聞くもの、食べるものなんでも新しい刺激となっただろう。お弁当箱や小皿料理に繊細な日本文化を感じたフランチェスカ(ドイツ)の作品には、お弁当を大画面いっぱいに描く発想のユニークさとともに、デザインや色面構成といった造形要素の追求がみられる。
 「いつもは色彩を使わないのよ。アーティスト同士、刺激を受けながら制作するのが自分にとっても発見が多く楽しい」とは、市内見学で撮影した写真を立体コラージュ作品に仕上げた阿部尊美さんの言葉だ。色彩豊かな切り絵のミハエルさん(ドイツ)と同室だった。地域や人との出会いを通じていつもより勢いや実験性に富んだ作品が生まれることは滞在制作の醍醐味だろう。
 彼らは、普及・交流のプログラムにも積極的だった。ワークショップでは、雨の中たくさんの子ども達がTシャツや壁画を制作し、アーティストと和気藹々のムードで楽しんでいた。参加者にはよい思い出になり、芸術に身近に触れるよい機会を提供していただいたと思う。今回初となるシンポジウムは、レジデンスの感想や、作品のコンセプトなどをアーティスト自身から聞くことができる意義深い企画だった。作品への理解も深まり、さらに、みながそれぞれの「小田原」を作品に反映すべく一生懸命取り組んでくださったことが伝わり、非常に有難く感じた。
 素晴らしいアーティスト達と、須藤ご夫妻を始めとする実行委員会メンバーの細やかな愛情と配慮に支えられたARIO2は、小ぶりだがしっかりした実を結んだ。

震災と美術館 平塚市美術館 学芸員 勝山滋(AQUA第35号)

 東日本大震災での美術館の被災は複合的で、過去の震災と違うのは地震に加え津波、原発の影響が重なったことである。
 石巻文化センターは、津波で一階が壊滅的な被害にあった。扉がぐにゃぐにゃになり、蔵書はパルプ分が溶けて地面にたまっていた。津波被害では、塩水に浸かった建築は何度拭いても塩分が染みだしてくるという。二階が無傷でも建物が使い物にならず、先ごろ取り壊された。救出した資料も津波による塩害被害への対処法はこれからという状態である。今回放射能で立ち入り制限になっている地域での救出作業も始まったが、地域コミュニティーあっての文化財と考えるなら、今後救出される資料の存在意義はどこにあるのだろう。
 美術行政の問題もある。仙台の福島美術館は伊達家の文化財を収蔵する小規模館である。震度6の揺れに耐えたが、建物に亀裂が入り休館。県には報告したが、翌年ある会合の資料には被害の欄が空欄になっており学芸員は愕然としたという。博物館的な美術館、博物館にある美術品は救援対象になりにくいというが、小さな美術館には支援はおろか、報告すら届かないのか、市街地に立地しながら孤立無援だったと聞き憤りを感じた。寄付金に対しおめでたい図柄の絵はがきを贈るなどの試みが紙上に取り上げられ逆境をバネに再開館できたことに心からの祝意を表したい。
 逆に、津波被害をうけた陸前高田市では、山を越えた一関市博物館に救援を要請したところ、翌日には学芸員が現地入りしたという事例もある。同館の責任者は岩手県内の館の横の連携をはかる中心にいた人物で、救援を即断できたことは素晴らしいことである。
 ある報告会で国の立場の責任者は、国が救援にいった時にはすでに地元が救援活動をしていたと自戒し、今後いかに行政として動くべきかと問題提起をした。一方現状では、各県内の横の連携構築に温度差もある。国、自治体、民間いずれかが機能しないと救援は遅くなる。つまり、それだけ貴重な文化財が失われる危険が高くなる。美術館人として、いまからできることを模索したいと考えている。

向日葵を買って 峰尾大介(AQUA第34号)

 自宅を夜8時過ぎに出て夜どうし走り大槌についたのは早朝であった。「お疲れ様、徹夜でしょ。暫く仮眠して後から来てよ」と先発隊。その言葉ありがたく頂戴します。20畳の広間に開け放った窓から三陸の海風が通り抜けている。座布団を二つ折りにしてゴロリとしたかと思うと落とされるように寝てしまった。大袈裟でなく人生最良の昼寝感だった。
 起きると11時。「そろそろ行こう」外に出ると日差しは真夏。今回の会場は弓道場。駐車場に降り立つと中から弦楽器の音がしてくる。中へ入ると即席美術回廊。アートが生音と混ざり合っている不思議な空間にしばらく漂ってしまった。
 いつの間にか弓道場土間の中央に4人の弦楽奏者、それを取り囲むように折り畳み椅子が並べられ、すでに30人くらいの人が座っている。私は彼らの後ろに回り込み彼ら越しにお客さんを眺めた。普段着でエプロンだけとってきたオバさんや、仕事を中座してきたようなオジサン達がすでに席に着いている。バイオリンの女性の合図でコンサートが始まった。一音目ゾクッとくる。観客を眺め、直ぐに天井を眺めた。期待などしていなかったのに涙がこぼれそうになったからだ。天井がとても高く音が降り注いでくる。そして音とともに違う何かが漂っている。それが私に泣けという。曲は私でも知っている有名なもの。少し滲んで消える涙。生音とは罪である。
 真夏の弓道場はすべての窓やドアが開け放たれている。川風や、近くを通るバイクの音、運動場で練習する野球の音が聞こえる。それが音楽と混ざりとても不思議で優しい響きになる。コンサートホールのように隔絶された場所では決して味わえない感覚にやられてしまった。
 少し飽きてきた女の子を控え室に誘った。「おやつでも食べよう」「何飲む?」「何があるの?」「これ食べる?」買ってきたドーナツボールを出した。物凄い勢いで食べだした。「そんなに食べたらウチに帰って夕飯食べられなくなるよ」「平気だよ」「お母さんに怒られるでしょう。」「お母さん、津波で死んじゃったんだよ。本当だよ」「・・・・・」不意打ちを食った。思いっきり足をすくわれて必死に次の言葉を探す。いい言葉が出てこない。「じゃあ誰がご飯をつくるの?」「お父さんかおばあちゃん」「兄弟はいるの」「弟がいるよ」「じゃああんたが手伝わないと駄目だね。えらいじゃん」「トットロートットーロ」急に歌いだす。もれ聞こえるコンサートの音にあわせて。「トトロ好きなんだ」
 やがてコンサートも終わり、おばあちゃんと帰る彼女らを見送った。「お母さん津波で死んじゃった」の内容と声のトーンの軽さのギャップ。まるで日常。彼女らにとっては生も死も日常なのだ。小学校4年生で母親の死を咀嚼し消化している。こんな娘が私よりしょっている物が大。母が倒れて4年目になる私は彼女のように他人に話すことが出来ているか?小学生が出きるんだもの、きっと出来るさ。被災地の小学生に少し勇気を貰って本当に有難う。

単純な理論 薗部雄作(AQUA第34号)

あれこれ模索のさなかにあった二十代のわたしに、あるときふと色相環のイメージが浮かんできた。そしてそのイメージが、なにか自分の作品を探求するための原理的なモデルや理論?のようなものとなって頭のなかに住みついたのであった。色相環とは、ご存知のように虹の七色を含めた十二色が円環状になって並べられている図である。中学のときの図工の教科書で見たのが記憶の中から浮かんできたのだと思う。そして考えた。この色相環が成立しているのは、それぞれの色が、自分の色をまもり、自己を主張をしていることによってである。たとえば赤なら赤、青なら青が、他の色に影響されあいまいなものになってしまえば、つまり赤や青としての鮮明な自分を主張できなくなってしまえば、それは赤や青としての存在の失格につながり、色相環自体の存在もくずれてしまう。
 絵画もまさしくそうであるのだ、と。多様な世界の絵画の環のなかで、ともすればその中の目だった絵画のつよい影響を受け、自分の色・特徴をなくしてしまえば、それは自分の作品という存在の失格につながり、そして世界の多様な絵画の環という存在も、それだけ単調なものになり、やはり崩れてゆくことになるのではないか。そしてその理論?にそって自分の絵画を探求しようとするならば、外部からむやみに情報を取り込むのではなく、むしろ、すでに自分のなかに入っている様々な濁りを排除して、できうるかぎり自分の色を鮮明にすることではないか。といって、かたくなに他の色を見ないというのではない。むしろ多くを見ることによって自他の違いや環っか全体の存在もよりよく見えるようになるのではないか、と。
 だからといって、そんな理論?がスムースに進行したわけではない。懐疑と模索の怪しい軌跡ではあったが、まがりながらも、そんな気持ちで現在にいたったのであった。

個展に寄せて - 白い華 - 山口敏郎(AQUA第33号)

「過去は記憶できるが修正できない。未来は修正できるが記憶できない。」

今回の展覧会‐思考の襞‐の中の「白い華」のインスタレーションはギャラリーの壁に穴を開けて順次その穴に「白い華」をさしていくものだが、最初から作品全体の設計図があるわけでなく、任意に第一番目に置かれた「白い華」が次に置かれる「白い華」の位置を誘導し、最後の「白い華」が置かれるまでこの行為が繰り返される。前に戻ってその位置が修正されることはあえて避ける。
よってこの作品はインスタレーションというよりサイトスペシフィックな作品といえる。つまりその場所でしか現せない一回性の作品である。さらに出来上がった作品の展示というよりその過程自体が作品であるわけだからパフォーマンスでもある。
ここで私が表現したい主題は、「時間形式」の具現化(マテリアリゼーション)への試みである。
一つの「白い華」が置かれる毎に新たな「今」が訪れ、知覚内容は変化する。それは目の前にある存在である。だが、こうして新たに訪れる「今」も次の「白い華」が置かれることによって絶えず押しのけられ、「たった今」となる、それはもう既に存在しなくなる。こうして、存在と非存在が常に反復されていく。 そのようにして流れている「今」というものは、止まっている「今」でしか捕まえられず、その止まる「今」は流れている「今」の分断化されたものである。全てが同時に「今」ではありえないが、全てが一度は「今」であった。新たな「今」が次々に現れて、「今」が「たった今」へと変化し、この「流れ」がまさに「過去-現在-未来」の時間形式を形作る。だから時間形式は、川の流れと同じように、動きによって成立する形であり、静止状態ではない。
さらにここでの時間形式へのアプローチから副次的だがアートに関わるテーマが導かれる。それは制作者と作品とのハーモニーあるいはその相互性である。
最初に置かれる「白い華」の位置は制作者が決定するという主導権をもっているが、その最初の「白い華」があたかも白い紙に最初に落とされた一滴のインクのしみのように、強烈な視覚情報が制作者を刺激し、それに答えるように二個目の「白い華」の位置が決められる。こうして新たな「白い華」が置かれるに従い段々と壁は複雑な視覚情報を発してくる。
そしてそれにつれて壁という環境にも主導権が移って行き自立的性格を帯びて来る、制作者と環境とのインタラクティブな共生調和が生まれるのである。

AQUAクラブの会長の就任して 堀典子(AQUA第33号)

 数々の特徴ある活動を行っているすどう美術館が開館してから、通算25年の月日が過ぎた。
 「若き画家たちからのメッセージ展」を開催するために初期の頃から館長が直接面談し、彼等の「生き方」を問うという。初期から現在までこの展覧会で選ばれた方々が、すどう美術館で続けて個展を開くなど活発に活躍されていることを館長御夫妻はすごく喜んでいらっしゃる。
 「出前美術館」では学校や施設など希望するところにすどう美術館所蔵の作品を運び、こどもたちをはじめ多くの方々に芸術作品と直接向き合う機会を提供している。  6年前にすどう美術館は銀座から小田原に移転したが、それからの活躍がまた素晴らしい。
 私が覚えているものでは、まず館長の大学などでの「死生観」についての講義である。ここでも核をなしているのは「芸術」である。
 2年前に続いて本年秋には二度目のアーティスト イン レジデンス」を開催する。日本と外国の作家達が寝食を共にしながら、互いに刺激し合い制作し、こどもたちや市民と共にアートの世界を共有するのである。
 昨年はアートの力で震災復興を助ける「東日本げんきアートプロジェクト」を立ち上げた。
どれひとつとっても、他の画廊では見ることの出来ない特徴のある素晴らしい活動である。
 今回「すどう美術館友の会」の会長にと言われた時、私は「その任にあらず」と繰り返しお断りしたのだが、次第に「もし私でもなにかひとつでも出来ることがあれb・・・」と思うようになってきた。
 「若き画家たちからのメッセージ展」のように「画廊が芸術家達を助ける」という試みはヨーロッパでも古くからある。これからは芸術家達が画廊に協力する時代になってきたという気がする。特にこのように特徴ある活動を続けているすどう美術館に作家と友の会が手を取り合って、今までとは別のかたちで協力することは出来ないものだろうかと思案する昨今である。ご賛同いただける方どうぞ色々なご意見をお寄せいただければ幸いです。

鉄と私 安斉重夫(AQUA第32号)

 鉄を素材として彫刻を作り続けて早、30数年が経ちます。大学では数学科に籍を置きながら彫刻の授業を4年間受け続けていました。数学という抽象的な思考と彫刻と言う3次元の行為は互いに補い合うものでした。
高校で数学の教員をしながら彫刻を続け、個展中心の活動でした。34才の時に鉄の彫刻作家に出会い、それからはほとんど独学で、アセチレンガスの溶接による鉄の彫刻作品を作っています。すどう美術館には銀座から長くお世話になっておりました。地方から東京にと考えて、平成11年からはずっとすどう美術館で小田原へ越す前の平成18年までほとんど毎年、個展を開かせてもらいました。すどう美術館はまさに、東京の窓でした。
 ところで、 この大震災でいろいろなことがありました。私も孫達を連れていわき市から千葉の茂原まで3ヶ月間、避難をしていました。彫刻も忘れ、ただ何も考えられずボーとした毎日でした。その後、沢山の人に助けてもらい、また、彫刻をはじめました。
 震災の後で、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩が脚光を浴びていますが、私もずっと賢治に魅せられて来ました。彼の故郷、花巻市でいつか個展をしようと計画しておりました。その願いがかなって、平成23年6月から一年間のロングランで、彼の記念館の"宮沢賢治イーハトーブ館"の展示室全部を使っての展示となりました。彼の童話を紙芝居風に十数場面を鉄の彫刻で作り原作を添えて展示しました。彫刻80点あまりを展示しました。そのことで、次の年に花巻市より"宮沢賢治イーハトーブ奨励賞"をいただきました。一年間の展示の最中にあの大震災があり、忘れられない思い出となっています。
まさに、宮沢賢治は鉄の様な人なのだとつくづく感じます。決してきらびやかではないのですが、命を支えてくれる大切な存在。これからも彼の作品を彫刻で表して見ようと思っています。

個展によせて 舩坂芳助(AQUA第31号)

 4月30日より5月12日まで、すどう美術館で個展を開催します。版画のほかに、和紙に落書をして破り表に「のり」を付けて貼ったドローイングによるコラージュを同時に展示します。欧米では普通版画と一点制作の作品を同列に展示する事はほとんどありません。一点の作品の単価に差がありすぎるのと版画と絵画作品は普通別々の画廊で扱います。今回は展示室も広く又、別々に展示ができますので両方を発表する事にしました。
 版画を制作していると完成後、自由に作品に手を加える事ができません。作品に手を入れたい衝動に駆られます。そんな事で版画を制作しだして早い時期から平行してドローイングを始めていました。ドローイングも版画的に描いた側に「のり」を付けて貼ってゆく事で重なった所は少しずつ薄くなります。破って貼るので直接描いた線が全部裏から見えている線、色です。版画も反転して作品になります。なぜこんなめんどうな事をと思われるかもしれませんが、出来るだけ自由な思わぬ線のつながりと面ができます。
 すどう美術館は10年間銀座で開館され、5年前小田原市の富水(とみず)に移転されました。銀座にある時から現代美術の啓蒙につくされていました。出前美術館、若い作家を選考してヨーロッパへ短期留学の機会を作ったり、アーティスト イン レジデンスで外国の作家を招聘したりして日本の若い作家との交流を盛んに行っています。又個展も開催していまています。数少ない貴重なギャラリーです。少し不便な所ですがぜひお出掛け下さい。小さな美術館という名称ですが帰りは何か大きなものが残ります。個展中も5月4日は2時よりトークと木版画の一版多色の摺りを実演し見ていただきます。ぜひお出掛け下さい。

ARTOY、10周年を迎えて 中井秀樹(AQUA第31号)

10年は一言では語れない、なんてことはない、「ARTOYは永遠です!」この落ち一遍言ってみたかったんだ。 おもちゃの作り手が、ある集まりの二次会で「気の合う連中で展示会やりたいね」「おもちゃとアートの融合したような?」「あーととおもちゃで…ARTOY?」

2004年5月、銀座すどう美術館、11名での幕開けであった。この時は何も決めずにそれぞれ出したい作品を出品した。次の年、会場は1nd+2ndの全フロアになり参加者も20名に増えた。
テーマなしでは来場者に意図が伝わりにくいのでは?そして何より作家のモチベーション維持のためにも、3年目からは、すどう館長にテーマを依頼。
〈10年間のテーマを披露〉初めの2年はテーマ無し、「のぞく」「つなぐ」「無限」「ススム」「浮遊」「すきま」「希望」で、今年2013年は「存在」である。

我々ではとても考えつかないお題を頂戴する。「例えば[無限]だよ、ずーっとあっちが続いている奴だよ、どーすりゃいいのよ」と、こんな調子のお題がみんなを苦しめる。でもこの苦しみが喜びに変容する瞬間を知ってからはもう病みつき。このお題頂戴が、ARTOYを続けこられた要因の一つと信じている。
お題がどのような捉え方をされ、形になったのか?送り手も受け手もそこを感じ取るのが醍醐味なのだ。

回を重ねるごとに参加希望者が増え、古参ものんびりしてはいられない。
ARTOYの参加によって、自分の作家道を見つけ独り立ちをした若手も出始め、ますます面白いことになりそうだ。
まるで大学の試験問題のようで、もし「無限について400字以内で考えを述べよ」という設問がでたら、私の答えは「400字という有限数で答えることは出来ません」と、まぁ、多少ひねくれた考え方がアァトには必要なのでは?と感じながら、今年のテーマいざ「存在」へ。
「10周年のメインイベントは決まったね、で、20周年はどうすんの?」
どうやら巻頭の落ちの通りになりそうだ。

すどう美術館での博物館実習 永井温子(AQUA第30号)

 みなさんはじめまして、私は専修大学文学部歴史学科3年の永井温子と申します。今年7月から10月に約12回、学芸員の資格課程としてすどう美術館で博物館実習をさせて頂きました。
 私が現代美術に興味を持ったのは、以前に六本木の森美術館で開催された展覧会で、マルセル・デュシャンの作品に出会ってからです。ヒゲが描かれたモナ・リザ、雪かきのスコップや便器などが展示されているのを見て、こんなものまで作品になっちゃうの!?と、私には衝撃でした。それをきっかけに現代アートに関心を持つようになり、3年の博物館実習をすどう美術館に決めました。
 実習を通して私が何よりも印象深かったことは、美術館を取り巻く温かな「つながり」です。鮮明に覚えているのが、実習初日に須藤館長が、「実習のあいだ家族と思ってくれていいからね」、とおっしゃってくれたことです。初日ということもあり、固くなっていた私の心から余計な力みが向け、館長さんはなんて優しい方なんだろうと感激しました。副館長さんもいつも実習に来るといらっしゃいと言って、冷たい飲み物を出してくれます。私の実習の楽しみの一つに、副館長さんが作ってくれる料理があります。どれも本当においしくてとっても幸せな時間を過ごしました。そして実習中、学芸員の仕事を私に教えてくれた高橋さんには感謝してもしきれません。梱包や展示から事務仕事まで、理解が遅い私に丁寧に教えて下さいました。
 実習中には多くの作家さんにもお会いしました。「若き画家たちのからのメッセージ2012」展の展示のお手伝いをしたとき、私とわりと年が近い方々もおり、身が引き締まる思いをしました。松山修平さんには現在のイタリアやエネルギー問題、展覧会についてお話を聞きました。長友紀子さんの展覧会では、展示を手伝わせて頂き、一緒に映画を楽しみました。また、すどう美術館の近くにはかくれんぼ、というカフェがあります。この間一人で行ったのですが、帰る際に「がんばって」と書かれた素敵なポストカードをもらい、とても励まされました。
 博物館実習では、搬入や搬出、展示など技術的なこともたくさん経験しました。しかし、それ以上にすどう美術館を中心として集まってくる魅力的な人たちが、皆さんすどう美術館が大好きで、その気持ちが美術館の力になっていることが分かりました。
 すどう美術館での12日間は私の宝物です。実習中にお世話になった皆さま、高橋さん、副館長さん、館長さん、本当にありがとうございました。

決して忘れない 髙橋玉恵(AQUA第30号)

 すどう美術館の2013年のカレンダーは、5月に東日本げんきアートプロジェクトで行った被災地での展覧会の作品を使って作りました。展覧会に来られた方に絵を思い出していただけたら、とカレンダーをお送りしたところ、岩手県山田町に住んでおられる方から、嬉しいお手紙が届きました。
「げんきアート展では、あふれるほどの愛のシャワーを注いでいただき、私も少し元気を取り戻すことが出来ました。遠くの地より、私たちに向けて下さる皆様方の支援に接し、元気になった私です。
 もしかして、自分にも何かやれることがあるのでは、と思い今は福祉施設のご老人さん達に絵手紙や紙はたおりの工作、仮設にお住まいの人達にランプシェード作りなどのボランティアに出かけられる様になりました。この様に自分が活動できるきっかけを与えてくれたのは、すどう美術館のプロジェクトの皆さんと過ごせた2日間があったからだと思っています。居心地よく、音楽コンサート、缶ブローチ、ビーズ飾りなどを制作しながら、幸せな時間を持たせていただきました。アートの持つ、そこしれない力をつよく感じております。」
 このように「絵や音楽が元気をだすきっかけになった」「近くで本物を見て、聞いて心がやわらいだ」という声を、展覧会後にたびたび聞かせていただきました。復興の進まない被災地の状況を目の当たりにし、そこで暮らす被災者の方々の厳しい状況を考えると、わたしたちの展覧会などは、ささやかな活動でしかないと感じていましたが、こうして少しでも美術や音楽の力が届いたことは本当に嬉しく、こちらが励まされる思いでした。
 「震災のこと、たくさんの被災した人々のことを、どうか忘れないでください」
これは被災地からのメッセージとして発せられた言葉です。震災の日3.11から時間は確実に過ぎていきますが、そのなかで変わらずに同じ国に暮らす私たちが、被災地に心を寄せていくことが大切なのだと思います。そしてそれが、自分にできることを見つける一歩になると感じています。

巨大じゃがいもアート(KJA)で世界とつながろう 浅野 修(AQUA第29号)

 東日本大震災は自然と人災の両面から恐ろしく厳しいものでありました。自然の力は厳しくもあり、時には美しい力も与えてくれます。生物は(人間も)宇宙の摂理の源で生きなければなりません。

日本は世界でも美しい自然に富んだ山脈列島であり、地形、気候、伏流水等から農産物、魚、畜産等、質に恵まれ、その質の良さが脳、精神にも影響し、まさに食文化大国の条件が揃っています。
日本人の食べ残した食料で世界の餓えた子供を救えます。但し、今、日本の食糧自給率は40%ですが、もしTPPが発足すると自給率は13%になるとも言われています。そうなると私たち日本人の身体はどうなるのでしょうか。

1000年に一度の大震災を機に、私が日頃手がけている「農業は美しい」の主題に添って、新たに「巨大じゃがいもアート」のプロジェクトに取り組むことにしました。
じゃがいもを拡大した巨大アート(およそ縦6m×横8mの大きさ2つ)を作り、食文化を主題として、日本各地の子供から高齢者まで、さらに世界にも拡げ、食に恵まれない国の子供たちも含め、100万点を目指して大勢の方に小作品を制作していただきます。そして、その小作品を巨大じゃがいもの中身として詰め込み大アートを創造表現します。出来上がったアートから今、日本や世界が措かれている食の問題の原点を検証し、社会に問いかけるための良いチャンスにしたいと思います。

なお、じゃがいもは北海道十勝めむろにある、大きなな赤レンガ倉庫の中に作られます。
このプロジェクトの協力をすどう美術館にもお願することになり楽しみにしています。

もうすぐ出口道吉展 峰尾大介(AQUA第29号)

 深夜に帰宅。台所の灯りは消えている。刺さりの悪い鍵をこじ入れドアを開ける。スリットから漏れる街路灯の光をたよりに靴を脱いで、玄関ホール左の洗面所で明かりもつけずに口をゆすいだ。頭頂部左側に何か感じる。物質のような、そうじゃないような。誰かに覗かれているような。

 玄関のドアを開けるとその正体は少しだけ見える。意識させない分量だけ見える。しかし無意識のうちに脳に焼きついてしまうような・・・彼の作品を手にしたときからそんなディスプレイを思い描き、あちこち試した末、今の場所(階段踊り場)に収まった。真夜中、スリットから漏れる光を不気味に写す不思議な存在感は、脳のどこかに棘を刺し、いつまでも小さな違和感を残す。そしていつしかその棘も自分のものとなり一生とりのぞくことはできなくなる。もはやこの刺激無くしてはとても暮らしてはゆけない。これこそが現代アートの醍醐味なのだ。その快感を私に教えてくれたのが彼の作品なのである。
 その彼が11月に新作をすどう美術館で発表するという。楽しみのような恐ろしいような。彼の新作はいつも、ある意味で私を大きく裏切り突き放してくれる。逆にいえばいつも私の想像をはるかに超えたところにいってしまっているのだ。人間は誰しも見たことないものや、まるっきり新しい表現にさらされると、恐怖を覚え非難をしたり無視をしたり否定しがちである。しかしながら新しい表現や感覚を、たとえ少数の人でも認め楽しむことにより時代が少しだけ動くのである。幾ばくかのお金があったなら是非所有し私と同じ病気になってほしい。

「2012 ART Santa Fe -断想-」 ノモトヒロシ(AQUA第28号)

 7月10日、チェックイン前、成田空港にあるTUTAYA書店で、私は一冊の文庫本を手にした。「どうして、僕はこんなところに」ブルース・チャトウィンの本だった。まさに、今の自分の気持ちそのもの。この紀行作家の旅の収穫を語る本は、これから自分が体験することを予感させるものかもしれないと思った。
 ものを作るとき、五感を震わせて、自分に問いかけ、素材と言葉のやりとりをしながら言葉にならない想いへ飛躍したいと願い、足したり引いたり、その境界で悩む。そして、"エイッ"とスピードを速めて体を移動させると新しい領域が見えてきたりもする。
 いつも新しい何かを目標にすること、見えない先へ、自分以外のものへ耳を澄ませること、それを感じること、そして、くり返し実験することだ。今回の作品もそうして生まれてきた。旅に出ることも同じかもしれない。緊張と解放をくり返し体験させてくれる。
 サンタフェに着き、澄んだ空気と丸みのあるレンガ色の建物に、長時間の移動の疲れは癒された。中心部にある展示会場はそんな街並みにあり、周囲にもアート(オブジェや壁画)があふれている。展示は、高橋さんのプランに添って7人の作品が絶妙に配置され、サンタフェの街の空気のように静謐な空間へと仕上がっていった。本当に美しかった。多くの来観者からも、とても好評を得ることができた。英語が全くダメな私は、すっかり朝比奈さん、宮塚さんに通訳をお願いし助けていただき、やっと会話することができた。そんな中、自分の作品の前で佇み対話し続けると、意外と制作中、見ているようで見ていない部分があることに気づく。こうして、別の空間で他者の目で眺めてみると、次への可能性が潜んでいることを知らされるようだ。もっと金属という素材と触れなければ、もっと皮膚として捉えなければと、さらに、見る人の思いを、この作品の中に注ぎ込めるほどの深い器になればと感じた。
 今回のサンタフェは濃密な旅だった。本当に、皆さんに感謝したい。

New departure 石田勝也(AQUA第28号)

みなさんはじめまして私は山北町の丹沢湖のほとりにある落合館という家族経営の小さな旅館の跡取りです。併設している蕎麦屋で昼食の提供もしております。
この度、すどう美術館のご提案により私どもの施設に、東日本げんきアートプロジェクトの作品を展示しました。
私は以前から旅館で美術の展示を行いたいという夢があったので、すどうさんからの申し出は大変ありがたいものでした。というのも私自身も絵を描いており、旅館という事業を継承しようと決心した理由の一つに、旅館経営に美術が生かせるのではと考えるようになったからなのです。このような形で夢の第一歩を踏み出せたことに大変感謝しています。
今回の展示で学んだことや気づいたことについて少し書きたいと思います。ひとつめに、現代美術の作品が旅館や蕎麦屋といった空間におどろくほどよくなじんだということです。これまで美術作品の展示がしたいと思いながら、踏み込めなかった理由の一つとして現代美術の作品はギャラリーのような特別なスペースを設けなければできない、という思い込みがあったからです。工夫次第でいろいろな所に作品がおけるということに気付かせてもらったことは私にとって非常に大きなことです。
次に作品を壁に掛けるときの楽しさを実感したことです。私は搬入の少し前からわくわくして、店内の整頓をしたり、壁を白いペンキで塗ったりしながら久々に「いきてるなあ」と思いました。また搬入のときは副館長からキュレーターとしての視点や考え方など教えていただき、大変勉強になりました。この展示を通して、多くのことを学び、気付くことができ、アートの力が人や町を元気にする可能性にあふれているということを自ら実感することができました。
そして多くの人に美術に触れ興味を持ってもらいたいと思うようになりました。この経験をふまえて、今後も作家の紹介を兼ねた作品の展示を定期的に続けていきたいと思っています。
早速体当たり、夢の一歩を踏み出しました。みなさま どうぞお出かけ下さい。
【草川誠展―形の節― 7/26(木)~9/30(日) 丹沢湖落合館】

「春の風」東日本被災地の復興を願って すどう美術館 副館長 須藤紀子(AQUA第27号)

 東北の遅い春は桜が満開でした。この桜ほど美しくそして寂しく思えた桜は今までになく、これからも決してないでしょう。
 「絵なんてなんの慰めにもならない」と77才の八重ちゃんは会場の入口付近でぼそっとつぶやきました。私は怒られているのかとドキッとしました。「・・・と思っていましたが」と言いながらだんだんとまるで怖がっているように中に入ってきました。しばらく立ちつくしていましたが、と、突然「こんな絵の展覧会は一度もなかった。私はこういうのが見たかった。ありがとう」と泣きそうな顔でいいました。八重ちゃんは仮設住宅に居て今朝お兄ちゃんがこのチラシを持ってきてくれたので、思い切って来てみたとのことです。そして、往復徒歩50分もかけて3日間も友達を誘って通ってくれました。最後の日には私も何か役に立ちたいと、皆に煮物まで作ってきて、「出汁は自然のものばかりを使って昨夜から煮込みました。久し振りに楽しく料理しました」と。
 自ら被災されたほかの人たちも会場設営や作品の運搬、仮設住宅の案内など手伝います、とたくさん名乗り出てくれました。
 今回のプロジェクトでは一方通行ではなく交流ができたらと話し合って現地に行きました。来場者のひとりひとりに声をかけるよう心がけ、そこで悲しい話もたくさん聞きました。
 こんなにも絵を一生懸命見てもらえたのも予想外でした。出展した作家それぞれが被災地に心をよせ、元気になってもらいたいと、心から願って描いた作品だからこそ感動を与えることができたのだと思います。
 音楽チームも心に響く、素晴らしい演奏やワークショップをしてくれました。
 感動してくれた人達の涙、その涙を見て私たちも思わず涙し、何かお役に立ちたいと思ってしたことが、逆に感動と勇気をもらって帰ってきました。
 被災地に立つと呆然とするばかりで、復興などと言う言葉はむなしいばかりです。でも人々はそこで一生懸命生きているのです。
 被災地で出会った人々の心に一瞬でも春の風が吹き抜けてくれたことを願わずにはいられません。

あーとは地球を救えるか 村上 敬(AQUA第27号)

 私が本格的にアートに興味を持ってからまだ5年ほどでしょうか。
 きっかけとなったのは、現在のライフワークの一部である『山野草』との出逢いだと思っています。それまでの私は全くと言っていいほど興味を持っていませんでしたが、偶然プレゼントされた一鉢の山野草を機会に、終わりのない奥の深い世界へと、のめり込んで行ったのでした。それからのスピードはとてつもなく早く、そして制御不能なほどに日々変わっていく自分が恐ろしくもあり、嬉しくもありました。
 そんな折でした、以前からお名前を聞いていた『すどう美術館』を訪ねたのです。
 先ず感じたのは圧倒的に開放的である事、それに加えて展示空間が大変変化に富んだところでした。しかも常にレベルの高い作家、若手有望な作家達の作品が展示されています。すどうさんの考え方をお聞きしたり、作品たちを何度か拝見しているうちに、遂にハマってしまいました。
 そして昨年の震災が起きたのです。私ができた事と言えば、僅かの義捐金を送らせていただいた事や、浜岡原発の停止署名活動をお手伝いしたことぐらいでした。
 昨年、私はある意味アートに狂っていました。兎に角興味を持った場所なら、あらゆるところに足を運び、参加し、見学し、当然のこと購入もしました。そしてこちらも今までに経験した事のないほどのスピードと行動量で1年という時間を駆け抜けていきました。
 新しい年を迎えた今年は、少し落ち着き昨年とまったく逆の動き、行動パターンに気が付いたのです、本業の方に集中していたのです。自分でもなぜなのか理由は分かりませんが、生活の糧となるモノの方に気持ちと時間を優先しています。
 私は本業である家づくりもアートだと思っていますし、鉢の中で造り出される山野草の自然な姿もアートそのものだと確信しています。その二つのキーワードに携わらせていただけたものとして何ができるのか、まさに今、模索しているところでもあります。
 『あーとは地球を救えるか』という壮大なテーマは日々の小さな積み重ねでしか超える事のできない何かがあるのだと感じています。その大きな壁はきっと苦しく、楽しい道のりの先にあるのだと思います。

グアダラハラ・ノート 山口敏郎(AQUA第26号)

「今日は寒すぎてほとんど人が来ないかも知れないな。」とグアダラハラ画廊のオーナーのハビエルが言った。「そんなこともあるまい。」と私は答えたが、内心そうかもしれないと思った。
2012年2月2日、この冬一番の寒さで通りには人の姿が見えない。
しかしオープンしてみると何のことはない。三々五々つぎつぎに人が入って来る。
さらに一様に熱心に作品を見てくれる。若い美大生らしき若者たちも特に念入りに何かを吸収するように見入っている。デッサン愛好家、建築家、精神科医、もちろんアーティストも含め色々な人が多くの質問を投げかけてくる。「どれも繊細で心のこもった作品だ!」と誠心誠意言ってくれたよ。感激で目がうるんだね。
こんなことはマドリッドでの展覧会では有り得んね。みな手にワイン、作品は背にして、作家であれば「近頃はさっぱり売れないね。」的な近況報告を、ある者は政治経済の話をと、まるで展覧会のことはそっちのけだ。
グアダラハラは首都マドリッドに隣接する県で、各駅停車でもたった1時間の至近距離にある。
しかしこの反応の違いはなんだ。
そういえば、私がマドリッドにやって来た30年前、マドリッドが正に今日のグアダラハラ画廊での様相を呈していた。私も熱心に老舗の現代美術の画廊をめまぐるしく回り、新しい動きを吸収して行った。画廊主も時が経つのも忘れ熱心にアートの話をしてくれたものだ。
そうした画廊もどんどん減り、資本をもった企業画廊が入りこんで来るに従い、画廊主と客との関係も薄れちまった。
それはちょうど以前あった街の小さな商店が大型スーパーの誕生と共に消えて行ったのと重なるな。魚屋、八百屋をはじめほとんどの日常品は歩いてすぐのじいさん、ばあさんなんかがやってるショボい店に買いに行ってたっけ。そこでは主人と客との間に色んな話が生き生き飛び交ってうるさいのなんの。もちろん主人はその道のプロで、自分が売っている「もの」に関しては悔しいほど何でも知っているんだ。色々アドバイスをしてくれてこちらは助かり、同時に言葉も覚えて行ったものだ。
大型スーパーができ、そこにはきれいに包装され、マーケティングの結果絶対多数の人が好む「商品」が何でもそろい、人々は無節操にもそちらに流れて行った。そんな所に本当に自分の好みに合って、作った人の気持ちが伝わる「もの」があるはずも無く、またそんなことは売る方も買う方もどうでもよくなってきたんだろう。会話も無いしね。
最近の大手ギャラリーも同様に、マーケティングされた「商品」が並び、画廊主の姿も見えず、アシスタントが奥でパソコンを打ち、携帯でコレクターにコンタクトを取っている。
アート・フェアーはそうした「商品」の見本市で、最新のモデルが提示され、ギャラリストたちはそれらを参考に次の戦略をねり、一般客は、目が回るほど多く並べられた「商品」を探し、自分に好みに合った「商品」を買って来る。その「好み」すら、業界によって操作されているんだよ、新しい携帯の最新モデルのように。

本来、個人の内にある感覚質といったものを掬い上げ、それを丹念にたどっていくことによってのみ多くの人の心を動かす創造的作品が生まれる筈だ。
今回のグアダラハラ画廊での展覧会で得たものは多く、そういう意味で私が一番楽しませてもらったよ。
みんなありがとう。これからも「商品」は作らないで、ショボくてもいいから手作りの「もの」を作って行こうよ。

2012年2月6日、タピエスが死んだ日に

ヴァイオリンを一緒に弾きませんか 大鹿由希(AQUA第26号)

昨年の3.11.東日本大震災の直後、私は演奏の仕事でボストンに行き、震災と原発事故に関する世界各国のニュースと人々の反応をリアルに感じながら眠れない日々を過ごしました。その後もヨーロッパへ行く機会があり、そこでも人々が被災国から来た私たちに強い思いや意見をあらわにする場面に多く出会い色々なことを考えさせられました。東京にいるとそこには一見、以前と同じ生活がありありがたいと思う一方、不安や怒りが人々の心の中に抑え込まれているように感じ一年がたった今もそれは変りません。
昨年4月、『東日本げんきアート・プロジェクト』が誕生し、私は音楽家としてそのメンバーに参加し活動しています。実は、すどう美術館を中心としたアーチストたちに圧倒されっぱなしです。一人一人が震災に向き合い、意見を持ち、行動に移していく姿にずいぶん励まされています。
私たちは芸術活動を通して様々な想いを表現できる場があり、それは幸せかもしれません。最近、感情を表現することの大切さを実感しています。子供たちを観ていると言葉だけでなく、絵をかいたり音を出したり、表情、全身を使ってのびのびと気持ちを表現しています。大人になるとだんだんそのツールが忘れられていくのでしょうか。
現在、プロジェクトのメンバーは被災地で行う企画に向けて準備を進めています。音楽や美術を通して人々の心が響きあい、力になることを願っています。

小田原とレジデンスの素敵な関係
小田原市文化政策課文化芸術担当課長 古矢智子(AQUA第25号)

 アーティスト・イン・レジデンスを小田原で…こんな須藤館長のご提案を受け、庁内プロジェクトを立ち上げたのは昨年の夏。幸いにも南足柄市にご賛同いただき、すどう美術館と二市が協働して実行委員会を設置することで補助金の確保が可能となり、公共施設利用にかかる調整、近隣市町村への協力依頼などレジデンス開催にかかる実務面のお手伝いをさせていただきましたが、これは本市にとりましても、文化振興の意義とあり方を問う格好の機会となりました。
 レジデンスの第一義は、アーティストの育成にあると思いますが、行政が関わるためには、誰もが納得する公共性を求められます。分かりやすいのは、レジデンスを機会として小田原に人が訪れるという誘客効果でしょうが、それだけを考えたら、とても割りの合う事業とは言えないでしょう。
 レジデンスの公共性とは、やはり「市民の心を動かす」という点にあると思います。「今、ここで」生まれるアートは、世界観を広げてくれる大きな刺激となります。今回、ワークショップを実施した小学校からは、「絵を描くのが苦手な生徒が、楽しんで描いていた」という嬉しくなるような感想をいただきました。自分の見知っている素材、例えば小田原城や何気ない街角が、アーティストの手で料理され、作品となったことは、自分のまちの良さを再確認する好機ともなりました。
 また、実行委員会の皆様の熱意は、他の活動団体をも巻き込んで、コラボレーション企画が実現したり、新たな出会いを呼び込んだりということもありました。こうしたエネルギーを生み出したこと、それが小田原にとって力とならないはずはありません。
 そして、私は思い描きます。レジデンスに参加したアーティストが、いつまでもODAWARAに心を寄せてくれることを。そしてそれぞれの場所で、ODAWARAの話をしてくれることを。
 小田原の文化の新しいページが、また開かれたことに乾杯☆

レジデンスを終えて たかのたかき(AQUA第25号)

 今回のような行事を企画され、実現にこぎつけるまでには、大変なご苦労があったことと思います。長い時間をかけて周到に作って下さった舞台で最後に舞っただけのわたしですが、それでもその心意気に応えられるように力を尽くしたつもりです。終わってみれば、まさに制作三昧の十二日間、作家冥利に尽きる至福の時間でした。このような夢の時間を与えて下さったことへの心から感謝ゆえ、この催しがぜひとも続いてゆくことを願い、参加した者の視点から見て気がついたところを述べたいと思います。
 市を巻き込み、国際性も伴った今回の催しは、日展や二科展だけではない美術もあるということを作家本人たちを通じて地元市民にじかに伝えるまたとないよい機会ではなかったかたと思いました。それは現代美術の魅力を紹介伝播する「すどう美術館」の活動目的にも大いに一致するところです。
 具体的な提案をふたつほど掲げます。
 市民の前で映像をみせつつ、作家たちが自作を解説する会があればいいと感じました。毎日のようにアトリエを訪ねる人も何人かいましたので、こういう会に参加したい人は必ずや潜在します。
 パネルディスカッションもやりましょう。市民の関心のありそうなテーマで作家たちが意見を交換するところを見てもらうとともに、市民の質問にやさしく答えるような機会があればと思うからです。
 こうした掘り起こしが地元市民の理解と賛同を得て、それらが後押しをするようになれば、"ARIO"が小田原の地に定着する大きな力になるような気がするのです。
愚見をのべましたが、少しでもお役にたつならば、それほどわたしの心に適うことはありません。

被災者と芸術活動 朝比奈 賢(AQUA第24号)

東日本げんきアートプロジェクトのメンバー5名で、8月15日から4日間、岩手県の大槌町と山田町を訪れました。どちらの町も津波の被害は甚大で、まるで、戦争で破壊し尽くされたように、見渡すかぎり何もない焼け野原のような光景が広がっていました。初めてこの地を訪れたのは震災前のお正月のことでした。あの楽しい時間を過ごした松井さんのお宅も、コンクリートの礎石だけを残して根こそぎ流されていました。目も眩むような落差です。震災から5ヶ月、自衛隊の活動もあって瓦礫の撤去はかなり進んでおり、表面上は落ち着きを取り戻しているようにも見えます。しかし、巨大津波に当たり前の日常を奪われた人々は誰もが深く傷ついているように見受けられ、物心共の復興には大変な時間が掛かりそうです。山田町・生涯学習課の小成勝也さんによりますと、被災状況には地域差があり、さらに個人差もあって、落ち込みが激しいひともいれば、そろそろ何かやりたいという意欲が戻ってきているひともいるとのこと。そして、芸術活動を必要としているのは、その中間の、何かきっかけがあれば立ち直れそうな方々だそうです。震災以来、未曾有の被害への対応に忙殺され、民謡や踊りなどのイベントがあってもなかなか参加する気になれなかったのも当然でしょう。しかし、思い切って出てみると、必ず、「よかった、よかった…」と口を揃えて喜ばれるとのこと。少しでもいいから何か別のことに没頭し、「ゆるみ」の時間を持つことができれば、緊張しきった心が大きく回復するようです。ボランティアが企画したイベントや祭りに参加するさまざまな町民をみてきた小成さんの感想がとても印象に残りました。「被災者の方々は、芸術活動に飢えています」。私たちは、皆さんが少しでも元気が取り戻せるよう、アート・音楽のプロジェクトを現地の皆さんと連絡を取りつつ、しかし、決して無理強いすることのないスタンスで企画していきたいと思います。

AQUA色の心 伊藤聖治(AQUA第24号)

すどう美術館の館長とは、館長が第一生命保険の要職についていたときからのお付き合いで、お互いに髪の毛がふさふさしていた頃だったと思います?このたび八田さんが残念にも病気でお亡くなりになり、館長から後任のご指名があり、すどう美術館友の会「AQUAクラブ」の会長をさせていただくこととなりました。前任の八田さんは温厚なジェントルマンで、AQUA色の心を持ち、須藤ご夫妻と澄んだおつき合いをなされていたと推察しております。私もそのようなおつき合いを、すどう美術館の方々およびAQUAクラブの方々とできれば、最高の喜びと思い、引き受けることと致しました。
私のアートとの出会いは,30歳になりたての1973年に、仕事でニューヨークに赴任したとき、冬の夜が長いところで、酒とバラの日々ばかりを送ると、体に良くないと思い、インドアテニスと自己流で油絵を描き始めたことと、姉の知人がソーホー地区で画家をしており、その仲間の新進気鋭の若い画家達の熱気あるアート作品を数々見て感動したことでした。1989年に二度目のニューヨーク赴任で、マンハッタンに住み、週末には、メトロポリタンミュージアム、近代美術館、グッゲンハイム、ホィットニーミュージアムなどを訪れ、いろいろなアート作品を見る機会に恵まれました。
すどう美術館が箱根に近い富水に移られ、皆さんの素晴らしい作品を見る機会が増えました。と申しますのは、私は無類の酒と温泉好きで箱根の湯本にある日帰り温泉に行く機会が多く、その帰りにすどう美術館に立ち寄り、作品を眺めながら,館長といっぱいやるのが楽しみとなっております。
アートとは、音が空気の振動で、色が光の振動で、詩が言葉の振動なら、「アートは時空を超えたこころの振動」と思っております。
AQUA TIMEZの「1000の夜をこえて」を聴きながらーーー

垣根の向こうに見えたもの 露木清勝(AQUA第23号)

「希望と活力あふれる小田原」を目指す小田原市無尽蔵プロジェクトの一つ、第2回小田原もあ展「ためしに垣根を越えてみる」が6月2日から5日まで、小田原の銀座通り商店街を中心に開催されました。
小田原もあとは、ものづくりとアートの頭文字「も」「あ」です。小田原でものづくりをする工芸家と現代美術のアーティストのコラボレーションプロジェクトです。その内容は、ツノダ画廊でのすどう美術館所蔵の26点のアートと、漆器・寄木・鋳物・ガラスの工芸家10人の作品30数点の「コラボレーション展示」、倭紙茶舗江嶋の店先での100号サイズの板キャンパス2枚に、工芸家の沢山の廃材を道行く多くの子供たちが、アーティストのアドバイスのもと貼り付けていく「みんなで創るアート」、オービックビル内での、伝統工芸製作体験や販売でした。
一見まったく別の世界に思える、ものづくりとアート、ものづくりと一言で言っても、数千、数万個と言う単位で作られる工業製品から、手作りで百個程度から一品物まで製作する工芸品まで様々なものづくりがあります。アートにおいても版画のようにある程度の枚数を作るものから、何年もの時間をかけて完成する一つの作品まで様々です。もしかすると、何を創ろうか?どのような絵画を描こうか?そう思った瞬間の工芸家もアーティストも、そのスタートラインは同じなのかも知れません。これは、私の勝手な想像なのですが・・・。
6月5日にツノダ画廊で行われた、すどう美術館須藤館長のギャラリートークで興味深いお話がありました。それは、アーティストがお前の仕事は、職人的だと言われること、工芸家がお前の作品は、何の用途もなく工芸品ではないと言われることは、それぞれの仕事を否定されていることらしいのです。同じスタートをきったはずの工芸とアートは、違う創造のルートをたどり違う表現へ向かっていきます。どちらがどうと言うのではなく、それぞれの役割を担う両者、一枚の絵画が人の人生を変え、ひとりの工芸家の作品が人の行く道を変える。本物が持つ両者の力は、根源的に同じに感じられるのです。そして垣根が無くなり、両者の「力」を融合させることが出来れば、小田原に希望と活力を生む原動力になると確信したプロジェクトでした。

「東日本げんきアートプロジェクト」に参加して 皆藤由美子(AQUA第23号)

あの3月11日から、早くも4カ月が過ぎようとしています。
大学時代からの親友が、結婚して宮城に住んでいました。彼女は今回の震災による津波で大切な家族を失ってしまいました。彼女の家族が消息不明と知った時の気持ちをどう表現したらいいのでしょう。文字通り息が詰まって意識が真っ白になってしまいました。胸が潰れるとは、あんな時に使う言葉なのかも知れません。
あれから4カ月。被災地では未だに過酷な状況のもと、癒える事の無い悲しみに傷ついている方々が沢山いらっしゃいます。すどう美術館に集う方の中にも、ご自身の家族や親戚、友人が被災され、その気持ちに寄り添いながら心を痛めている方も多い事と思います。
「東日本げんきアートプロジェクト」のミーティングに声をかけて頂いたのは5月の初めの事でした。ギャラリー無有斎のオープニング・コンサートで、大鹿由希さんを始めとする出演者の皆さんの総意として、出演料を「被災地復興に役立てたい」とすどう美術館へご提案があった事がきっかけで発足したプロジェクトという事でした。「被災地復興のために、傷ついた人の為に、何か出来る事は無いだろうか?」私達は真剣に話し合いました。集った有志作家はそれぞれにチャリティーについて考えていましたが、具体的な行動のきっかけを得られずにいたのだと思います。そんな時、それぞれの考えを持ち寄って話し合う機会を頂けた事で、少しずつ、目標の形やそれに対しての問題点などが見えてきました。東日本げんきアートプロジェクトとは、今まさに歩き始めたばかりの活動なのです。
先日、その第1回目の企画として、すどう美術館に於いて「チャリティー展」が開催されました。初日には大鹿さんらが出演する室内楽のチャリティーコンサートも行なわれ、短い期間の呼びかけにも関わらず多くの作品が寄せられました。アイデア溢れたグッズを提供して下さった作家さんや、大作を寄付して下さった作家さんもあり、想いが集まるとこんなに大きな力になるのだと実感出来る、大変素晴らしい感動的な展覧会となりました。
現在、広報サポートのためのブログを立ち上げてみました。閲覧可能な方は是非一度、御覧頂ければ嬉しいです。今後ともご支援のほど、どうぞ宜しくお願いします。「東日本げんきアートプロジェクトブログ」

ワインと料理と絵とパーティ 佐部利典彦(AQUA第22号)

この度、イタリアとの国境にあるスロベニアのアーティスト イン レジデンスにすどう美術館より、宮塚春美さん、山中清隆さんとともに、参加してきた。次の三つの観点から振り返ってみたいと思う。
1.0からつくるということ、ワークショップということ
個人的な性格なのか、日本人的気質なのか、その場所で制作する必然性や、この機会により飛躍したいと考えてしまう。一方、様々な国からやってきた作家の中には、いつもやっている仕事を淡々とこなしていく人も多い。合理的で数もこなせ、精神的な疲弊も少ない。私が思いを込め過ぎなのかもしれない。どちらのスタンスでもよいのだろう。でもそうなると作品の良し悪しもほぼ関係なくなる。全て好しだ。そんな解釈でよいのだろうか。
2.制作する環境づくりと制作
朝食を摂り、作品を眺め、制作プランを練り、制作し、日向ぼっこし、ワインを飲んで、ランチを食べて、制作し、休憩し、ワインを飲んで、ディナーを食べて、またワインを飲んでパーティー。それに、生活と制作の拠点となる場所がしっかりとあるのが落ち着く。日に日に制作に向かうモチベーションが上がる。それとともに、他の作家と交流したいというテンションも上がる。作品が出来上がり、絆も出来上がり、次の話へと続いていく。 同じ釜のめしを喰いパーティーを繰り返すことで、一つのパーティー(一行、隊)になる。そうして始めて、互いの作品の中に入れるような気がした。
3.展示とオークションと鑑賞者とコレクター
完成した作品の額装や、展示は地元のギャラリストや業者が行う。すどう美術館スタッフがいれば、もっと違った展示の仕方もできるなとも思った。ギャラリストの交流もあってもよいと思う。作家にも刺激になるであろう。オープニングには数百人のゲストがあり、会場入り口で10?支払う。ワインはスポンサーの様々な種類のものが赤白飲み放題。料理は、自家製のハムとパンに数種類のチーズ。仕上げはニョッキ。小作品のオークションでは、最低価格200ユーロから次々とお目当ての作品が競り落とされていく。ちなみに山中さんの作品はかなりの高値がついた。作品を観た人たちが作家である私を探し、感想を言ってくれたり、はげましてくれたりする。小さな村の何と心のゆたかなことか。

「3月11日のあの日から」 伊藤あずさ(AQUA第22号)

この度の東日本大震災に於きまして、被災された皆様、また関係者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
あの日、宮城県にいる私の親戚たちも地震と大津波に襲われ、全員の安否が不明となり必死に探し続けて10日ほど経った頃にやっと全員無事だという事が確認出来ました。
しかし、町は壊滅的で少しずつ復旧してきてはいますが、依然として厳しい状況が続いていると聞きます。
震災後、被災地の親戚と電話をする事ができ、何とか助けたい一心で話をすると、「そちらも大変でしょう。こちらはみんなで協力して何とかしているので安心して。」、「大丈夫、そちらで普通に生活していて。」などと言われ、被災地にいない私には考えられないほど大変な状況であるにも関わらず、遠方の私たちの事を気遣う親戚たちの言葉に涙が止まりませんでした。
私はみんなを助けたいと思いながら、そんな親戚たちの優しい言葉に不安と心配でたまらない自分の気持ちを助けてもらっていました。
これまでも自分の生活や作家活動に於いてたくさんの方々に支えられているのだと思っていましたが、今回これほどまでに強くその事を感じた事はありません。
私も何かの役に立ちたい、自分に出来る事は何なのか、まだ被災地の親族にすら少しの物資しか送れない自分が情けなくなる事もありますが、今自分に出来る事は不安や噂に流される事なく冷静に、そして被災した方々を思いながら謙虚に生活する事だと考えています。その中で、自分に出来る支援のあり方を見つけ行動していく事だと思っています。
「がんばれ東北!がんばれ日本!」私もこの言葉に賛同し、震災で亡くなられた方々のご冥福を祈りながら、微力ながら人として芸術家として役に立てるよう努めていきたいと思います。
今もまだ余震や放射性物質への不安が続いていますが、一刻も早く穏やかな日々を皆様が過ごせる日が訪れる事を切に願っています。