こんな話でよかったら 仙仁 司

31.
 今回のARIOでは、7日目に組み込まれたトークショー「アーティストと話そう」の進行を担当することになり、情報収集と参加作家とのコミュニケーションのため主会場の尊徳記念館に度々うかがい、全員に参加の意図、テーマ等を質問して見た。海外作家5名は日本の文化に強い愛を持ちながらも常態化しているホームレスや自殺、東日本大震災などに強い関心を向け、国内から参加の6名は日常生活の中で見つけたそれぞれの美意識を語ってくれた。
 何故アーティスト イン レジデンスなのか?トークショーなのか?アーティストの社会的役割が一般市民の方々とのやりとりの中で明確になれば、社会と未定着な部分の多い現代美術との融和を図る指針が見えてくるのでは、と考えたからであった。現代美術は、アーティスト自らが起居する現代という社会そのものが抱える多くの喜怒哀楽を表現することによって市民意識を育んできたのであって、決して市民社会の異端児ではないことを相互理解する必要があった。  トークショー当日、アーティストが制作中の作品を持ち込んでのより具体的な解説となって、度重なる質問の中で会場の雰囲気も和気藹然となりアーティストの気持が心地よく聴き手に伝わって、これまでは自分とは無縁だと思っていた現代美術が実は非常に身近で生活の中になくてはならないことに気付いた方も多くいて、思った以上に成果の多い内容であった。
 閉会後も聴講者の質問はしばらく続き、アーティストとの会話は途絶えず、トークショーの目的は達成されたと感じた。
 これまですどう美術館が展開してきた現代美術の社会化への努力が承認されたと理解したい。

30.
 小田原の街に招かれたアーティスト、わたしの仕事は仕立て屋さん“優しい心”を創ります。どんなに痛んだ心でもすぐに戻してあげましょう。
 せっせと“優しい心”を創っている最中の仕事振り程楽しいものはない。目付き、顔つき、筆を持つ手の繊細な動き、立ったり、掛けたり、屈んだり、描きかけの絵の前、使い古した愛用の画材と匂い、短い時間のなかで小田原の街を納めた控え帳やスナップ。アーティストの息遣い。
 これまで何度か入った家だけど、今日は横目の好奇心、ソーッとドア開けて驚いた。できたての“優しい心”を手にしたアーティスト微笑みながら寄ってくる、心は話す、よく話す、いろんな人に話する仕事が私の役目だと口上言ってまた話す、本当に楽しい長話、ようやく“優しい心”と出会えたこの話、誰にも教えず仕舞おかな、いやいや友達皆に話そかな。あなたが、今、一歩を踏み入ったところは“優しい心”の創造界、誰もが欲しくなりそうな特別上等な心を産み出すところ、何でもあるよと聞いていた大きなデパートの中に入り隅から隅までも、上等なお洋服のポケットの中までも徒労に終った探し物。アーティスト・イン・レジデンスはとても楽しい出会いを創る。アーティストはそれぞれ不思議な世界を持っていて心の中に住まわせる。人と社会を刺激して終りのない多様化を見つけ出す。
 もう一度、アーティスト・イン・レジデンスは人々の心を膨らまし街の心を創り出す。アートには不思議な力があるものだ。わかった~。

29.
どうでもいい話かな、物心のついた戦後社会の中で、否というほど聴き、否というほど口ずさんだ3曲、愛唱歌と美意識の始まり。
1「ゴンドラの唄」(1915 吉井勇作詞、中山晋平作曲、松井須磨子唄)
2「この道」(1926 北原白秋作詞、山田耕作 作曲、赤い鳥所収)
3「早春賦」(1913吉丸一昌作詞、中田章作曲)
この頃4人の姉達はすでに年頃に達していてよくこの曲を唱っていたように思う。幼い弟は無意識のうちに覚えて、あかき唇あせぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に~お母様と馬車で行ったよ~氷融け去り葦はつのぐむ~などの詞はゾクっとする程印象が強く、記憶が深まるにつれて、鋭くきりとられたこれらの詞を手掛かりに様々な季節の自然観、人間観を築いて来たように思う。これが言葉の力というものかと感じている。これこそ美意識の萌芽であった。
 軍歌から解放された姉達の気持を励ました3曲はいつの間にか役目を果たしたかのように歌われなくなり、やがて高峰三枝子の「湖畔の宿」に変わり、3曲は、軍歌を歌わずに済んだ少年期に入った弟の愛唱歌になった。
 大正から昭和初期は多くの叙情詩が作られ人々の心の隅々まで浸透して優しく包んだが、やがて競い合うように軍歌が作られ戦時色一色に染まり、人々の心から美意識はすっかり抜け去ってしまった。ようやく築かれた美意識だったというのに、戦後70年を迎えてもまだ失われたままのように思う。
 築くのは大変、失うのは易い。

28.
 戦後社会は長生きを1つの目標としてきたように思う。毎月届く北陸地方のある広報紙の弔意欄を拝見すると80才以上が当たり前で百才前後の方も稀れではない。最早、誰もが長生きする時代に入っていることを理解し、人生設計を描く必要があるのでは。現状では働く世代までが中心で晩年は付け足しのような感があり、何処か肩身が狭く、仕方なく生きている人も多い、身辺の整理を始めたり。そんな生き方や遠慮は全く無用なのだ。幼少期から育んできた諸々の体験も知識も見聞も、晩年まできちんと続いていて切り目はどこにもない。これまでは働くことを美徳として壮年期までの人生を重用してきた。まるで姥捨山の話のようなもので多くの人々がその意識に飲み込まれて来てしまっただけなのだ。
 最近やたらと女性の能力活用が叫ばれているが、老人の能力もきちんと社会の中に構造化して居場所を作り出していくのが急務でもある。現実のままでは、若い人々にとって老人社会は何ら魅力ないものでゴールが見えない。
 あんな年のとり方が素敵滅法と言われるよりもあんな祖父さん祖母さんになりたくないと思われる方々がやたら目につくのは小生だけか?
黙っていても長生き時代、生き切るエネルギーは芸術、文学、詩歌、芝居、パフォーマンスと接しその中に多くの友人を見つけること。そしてまた現実社会のなかにこそ発想の源があることを強調したい。凄いという老年は身辺に目を向け続けること、そんなところにあるものかもしれない。
 楽しいネ~、いや、おめでたいかもしれない。

27.
 リビングルームは家族が集い多くの時を過ごす。わが家もそうであったし今もそうである。東西にキッチンと寝室が並ぶ18㎡ほどのスペースには、まず入口の近くには7年前になくなったペットのパグの遺骨と両親の写真を納めたそれこそ小さな仏壇、その隣には、最近では弾く人もないアトラス社のアップライトが並び、そのうえには娘や息子の結婚式の写真が最近加わり、桃の節句には雛人形がアトランダムに据えられて賑々しくお話に興じて過ごす。90°廻るとパソコンとプリンターが様々なパグのぬいぐるみに囲まれ、隣りには早い時期に購入したシャープのアクオスが各地の民芸品を従えて位置取り、寝室のドアを挟んで90°曲がれば南面し、今この文章を書いている最中のソファがあって外に目を向ければ細長く東西に広がり四季を楽しませてくれる妻と息子の庭がすっかり葉を落して寒々とした夕暮れを迎えている。
 北と西の壁面にはいつも5点の作品が掛けられ、盆と暮には掛け替える。今は深沢省三先生の富士山、上野泰郎先生のエスキース、ベンシャーンのリトグラフ、深沢先生の色紙(仏像)、息子の径が制作した切り紙が並び、ソファに腰を下すといつの間にか見入って何とも言えない気持になってくる。
 一口で言えば、色々と妻子と話を交わしながら過ごしたこの空間は客のある時だけは小奇麗になるが、いつもはちょっと雑然とした家族共有のギャラリーなのです。家族がそれぞれこの部屋で時を過ごしながら色々な内的体験を持つことができた場であった。リビングルームってそういう所なんだね。

26.
 前回に続く、ヒヨドリ営巣の話。5月26日、1週間のNY旅行から戻ると、台所の窓越しすぐにあるスモークツリーに異変、地上2m程の三又を利用した巣作りの真最中で、2~3mmの太さをした枝状の植物を嘴で織り込んでいる。
 住人の留守の間に静かで安全な庭と勘違いをしたようであった。こうなれば可能な限り生活のリズムを合わせるように物音をたてないようにし、遮光カーテンを閉めて気配を感じとられないようにして、元々動植物好きの妻と長男3人でそれぞれの時間に観察を始めることにし、見そこなった様子を補完しながら。どうやら産卵は5月末から6月始め、次の抱卵期間が約2週間、雛がかえったらしく親鳥はしきりに餌を運び、雨の日は翼を広げてジッとうかがう様子。巣の深さが20cm程あって最初のうちは中の様子は観察できなかったが、1週間程して先ず2羽が嘴だけのような頭を見せ、3日後にもう1羽、更に3日程してもう1羽、都合4羽の雛が確認できた。
 巣立ち。6月30日早朝、親鳥が近くで促す中で、成長の早い2羽が無難に飛び出し、しばらくして3羽目が飛んだ、4羽目だ、なかなか飛び立てない、ようやく飛んだと思ったらそのまま落下、そこから母親の活躍がすごい、親鳥の目印であるかのように花びらを咥えて声を出して高みに誘い、何度も何度も失敗を重ねても諦めず促し続ける母鳥、応えようと頑張る雛、約7時間のドラマだ、4羽目も巣立ちに成功。
 野性化した野良猫のしつこい来襲が何度もあり、よろけて車道にでたりで心配の連続であったが見事にクリアー。狭い庭に見つけた生命の家族ぐるみのリポートでした。

25.
 わが家の庭は小鳥達にとって程よい飼場になっている。スズメ、メジロ、ヒヨドリ、シジュウカラ、ジョウビタキなどなど、それぞれの時間帯にやってくる。
さほどの広さではないが東西に長い形になっていて、南と西で隣地に接し、陽当たりは程々。道路際のフェンスには7mの長さで人目の高さに咲く藤は4月になると、咲くよ咲くよと気をもたせ20日前後に満開の紫を見せる。東端には長男が実生から育てた白樺がしっかり10mの高さになって小鳥の休息所となり、風にそよぐ枝垂れの葉は夏の暑さを感じさせない涼感でいっぱい。その傍のまだ小さいライラックは春の妖精を連れてくる。沢山の小花は無数の香袋、道行く人への贈物。その近く、小さい池は小鳥の水場、沢桔梗と蝦蟇の穂。大きな瓶には小さな睡蓮。台所の窓越しに位置するスモークツリー、本来ならばホワッとした文字通り煙のように見える花を沢山つける筈なのに、何故か花芽が少なくがっかりするところなのであるが、木の葉そのものが実に瑞々しい爽快感を持っていて薄く透き通るような葉は何とも言えない芸術そのものなのだ。身の丈を越えリビングの窓いっぱいの石楠花は蕾から咲き終えるまで延々続く無上の名画。この隣りの柿の木、桃栗3年柿8年の掟を破ってまだ実を知らぬ身、西端には仄かなピンクの花水木。
 手を入れすぎない長男と妻の仕様が功を奏して縦横無尽の楽しさよ、蝶、鳥よ 共に遊ばん。
 そうだヒヨドリが5月24日頃からスモークツリーに営巣、6月30日に4羽が巣立っていきました。これが本当に大変だった。詳しくは次回に続きます。

24.
  かつては多くの人々に食された胡桃豆腐の話。滑らかで野生的な味の余韻を決して忘れることはない。どういう訳があってこうなるのか明確ではないが、文学を読んだり、音楽を聴いたり、美術作品を観た時などこの味を基準値に判断してきたような気がしている。
 御袋の味、郷土山形の味であったが手間の掛かることもあり、いつの間にか食卓から消え、ある日突然、市販の胡桃豆腐が届いた時、その味の甘ったるさ、似て非なるものに愕然とした。あの懐かしい味を家族にも食べさせたいと思い、わが家の味を求めて何度も失敗を重ねてようやくこれだという味に到達するまで約2年。現在では何かがある時は食卓に上る定番になっている。レシピを紹介しますので是非一度チャレンジしていただければと思います。

【材料】
①剥胡桃160g  ②吉野葛160g  ③三温糖大匙3杯 ④日本酒50cc ⑤薄口醤油小匙1杯

【作り方】
A 水700ccを沸騰させ③④⑤を加えて弱火に3分間かけた後65℃まで冷ます。
B 胡桃に熱湯を通しミキサーに入れAの汁を加え10分蒸らした後4分間ミキサーにかける。
C ②を200ccの水によく溶かしておいた鍋に、液状になった①を加え中火以下の火力にかけて粘りと手応えの出るまで練り上げ型に入れて約3時間冷ます。夏期は固まりにくいので冷蔵庫に入れる。生姜醤油をかけていただきます。

古い食文化をそのまま伝えている胡桃豆腐には何か大切な感性を育む栄養素が含まれているような気がする。
 近頃、胡桃は健康食品として見直されているが胡桃豆腐こそ人と人を繋ぐおもてなしの秘策かもしれない。

23.
 ずんずん積もり、何処も彼処も覆ってしまうその技は神の世界のインスタレーションか。
 この二度の大雪は小宅の辺りも有無を言わせぬ勢いで降り積もり、2月8日は1尺5寸、15日には2尺余りになった。生国山形の山間部では尺を越えて間になるところも稀有ではないが、山形市街は意外に小雪で尺を越えることは滅多になく久々の大雪体験になった。8日は次男の結婚式であったが降りしきる中、難行苦行のうちにも無事終了することができ、15日には今日でなくてよかったと思った。雪に弱い首都圏のニュースは大雪の被害、交通混乱の話題に溢れ、少なければ紅葉や花と同じく風情のあるものも、まるで悪魔の扱いで喜んでくれる人は何処にもいない。ところでどっこい大雪の手品遣いは街々野原を見事なフォルムの白い巨大な立体作品に変えてしまった。普段は面白くも可笑しくもない唯々ぶっきらぼうな住宅やビルも、無数の車の往来も、雪は人為のなせる全てのアンバランスを消し、不浄を包み、騒音を鎮め、すべてを押さえ込み、東京などは実に荘厳な芸術作品となった。その圧倒的な力に打ちのめされた。ふと気が付けばこれまでは対極にあったり、見向きもせず、避け続けてきた大雪がまるで異なって見えてきた。見直すとか考え直すということは、まるで正反対の世界を美意識の中に取り込むことに他ならない。
 厄介者呼ばわりされ続けてきた雪に少々申し訳ない気がしている。すっかり雪は溶けて、東京の元の巨大な雑踏の場に戻ってしまったが、雪の芸術の荘厳さはそのまましっかり眼に残っている。

22.
社会とアーティスト
 第2回ARIO(10/16~25)は主会場を小田原城から尊徳記念館に移して開催された。海外作家5名、国内作家5名が招待され、公開制作、ワークショップ、シンポジウム、ツアー旅行などに参加しながら鋭い観察の眼を向け続け、様々な発見の成果を織り成すようにイーゼルにむかい合った。
 全員が初来日であった海外作家は好奇の眼を執拗に発揮し、私達の眼が日常生活の中で常態化してもう気付かなくなったような些細な物にまで美としての日本の心を見つけ出すと、国内組の作家は影響を受け、当面の制作の場となった小田原の歴史と自然を掘り起こし、今そこに居る時間を確かめるように作品を生み出した。
 会期途中に設定されたシンポジウムには小中学生までが出席する中で、公開制作の場ではもう一歩踏み込めなかった個々の造形意識の細部まで理解することが出来た。参加作家と出席者の距離が一気に詰まり、アーティスト イン レジデンスの意図するところが開かれた。これまで何処がどうだか分からなかったアーティストの社会における位置関係がごく身近にあることが見えてきた。アーティストの意識や感覚は美として社会の重要な財産そのものに他ならない。
 現代のアーティストは権威と宗教と妄想から解放され市民社会の中で歩み出し重要な大役を担うようになった。アーティスト イン レジデンスは最早現代社会の必需品なのだ。
ねッ!

21.
エスキースパワー
 美術展といえば本画の展示が通例だったが、最近はギャラリートークやワークショップか設定され、ポートフォリオが一般的になり、作家との接点も大きくなって、見る楽しみが膨らんでいる。 更にはエスキースの同時出品があれば本画だけの展示では見えてこないもの、制作中の意識や意欲の興起や起伏が見えてくる。エスキースには制作中の一部始終が見え隠れしている。それというのも、もう40年程のことだが上野の西洋美術館でピカソのゲルニカ展が開催されたが、残念なことにその時はニューヨーク近代美術館の門外不出ということもあって本画の展示はなく、その代わりタピストリーによる複製品が展示され、特別に多くのエスキースが出品され、円熟したピカソの眼がナチスの大罪を執拗に追い続けるドキュメントを共に体験しているかのようであった。初めてピカソとエスキースの役割に目を開かされた思いになった。やはりその頃に竹橋に移った近代美術館のヘンリームーア展でも多くの立体作品に交ってエスキースが展示され、素描がそのまま立体作品になるという訳ではなく移行してゆく途中の空間意識の美意識の変化を見つけた。最近では新国立美術館で開催されたモジリアニ展はやはりエスキースが多く出品され、モデルであった妻を徹底観察しながらも見届けきれていないと思う不安の中でその姿を追う眼の存在を知った。
 これまでは発想メモ、手控え、下図程にしか考えられてこなかったエスキースは美術関係者が考えている以上にアーティストがテーマを想し、理解し、表現準備の場であり、これからは充分な問いかけが必要になってくる。

20.
 美術の愉しみは既成の世評に依らず、今あるが儘の感性で対話するのがいい。現代の美術は作家個々人の想いそのものであって、多様な技法によって創り出された優劣のない百人百様のメッセージに眼を向け、意識の中に呼び込んで体質化させることが楽しいのだ。
 マスコミや批評家の言に依存していては自分の眼で発見する喜びは見出せなくなる。
様々なこの捉え所のない状況を反映して制作される現代の美術には評価の基準はない。持て囃される作品と切り捨てられる作品に仕分けることはできない。一等とか2等の区別もない。要するにそれぞれの作品は序列化、優劣化は元々不可能で、それぞれ単体の個性として生み出されたものなのだ。
 様々な葛藤から創作された作品は現代の美意識として作家の関わりと時代を語る任務を担っている。多くの作家が必要となる意味がここにあり、芸術は当り障りのない趣味として個人的領域の満足感のためにではなく重要な社会的生産行為となっている。アーティストはその都度メッセージを発信することで社会の一員としての任務を果してきたに過ぎない。
 現代美術を愉しまなければ現代に生きている意味が欠けてしまうことを、現代美術ってこんなにも生々しいんだってことを分かっていただけましたか。
 すどう美術館のアーティスト イン レジデンスは社会とアーティストが積極的に結びつくいいチャンスである。小田原市中心に開催された第一回はアーティストの積極的参加と多くの運営スタッフの意欲的なサポートがあって大好評であった。好人再集の元すでに今秋開催予定の2回展に向けて準備が始まっている。

19.
 先日、銀座では12年振りの個展を行った。好天にめぐまれ多くの方々が顔を見せてくださった。久し振りの面々も多く、何十年振りという方もあって話の弾んだ6日間だったが、幾つかのことが気になった。特に美術に関わっている友は揃いも揃ってお喋りで、矢継ぎ早に話題が面白可笑しく展開するのだが、同年輩の、つまり70才代の友人たちは、美術の話はそこそこで健康問題と身辺整理に向かっていて、これに追われてたいへんなのよとくる。
 確かに、多かれ少なかれ、誰もが何れ直面することではあっても、そこだけに気を配り過ぎては、これまでに積み重ね貯えてきた個性の素、経験や技術、思考、意識といったものが放棄されてしまうと思う。貴兄、貴姉にとって、そして私にとって、重要なのは最後まで何にもまして創り続けることではないのかな。刻々と目紛しく急変し、ややもすると即刻足元を脅かしかねない昨今の諸々の問題を知れば知るほど注意深く問題と向き合わなければならない。その時にはこれまで長い時間をかけて築き上げてきた意識を剥き出して存在観を主張することこそアーティストの役割なのではないか、このような軌跡の経路から導かれる創作には強い説得力があり、アーティストの生き様を貫き通すことになる。身辺の整理に従っているばかりでは大切なところ で未完になってしまう。諸兄諸姉の方々よ、綺麗な結末よりも爆発した、いや暴発してアーティスト人生を選びたいと思わないかい!!ちょっと気になったことでした。

18.
 特別な思いを持って郷里の山を描く人は多い。同郷の画家K氏(故人)は蔵王山に執着した。遠くから、近くに寄って、立ち位置と方角を変えて四季折々の種々相を描き出すスペシャリストであった。K氏の絵を見て蔵王山を取り込んだ人も多く、一般の画家とは異なる衆目を集めていた。盛岡には岩手山をモチーフにしていたH氏がいた。現場主義を貫き、屋外にイーゼルを立てその姿を確認するかのように向き合っていたという。山に対峙しながら無言の会話を交わし、絵はその観察記録ではなかったかと思う。2人は山との会話の中で見つけたその時々の姿を描きとめてリポートしていた。山容の美貌を求めているだけでは辿りつかない何気なく発信している見落しそうな、自然界の表情を的確に捉えている。見続けることで生まれた会話を通して、郷里そのものを心の中に刻み込んでいくかのようだ。故郷を語るキーワードは他にもあるが、やはり最後に落ち着くのはなぜか山、全てを許し懐が深く、いつも見守り励まし続けてくれた無言の姿に祈りたい思いが湧いてくる。
 蔵王山は前立の外輪山にはばまれて山形市街からその姿は望めない。それでも多く人々は何度も登山することで体と心に覚え込む。戦中戦後花巻に疎開していた高村光太郎は盛岡市街からよく望める岩手山の眺望を街づくりに生かすことをことある度に口にしていたと聞く。
 蔵王は子供の頃から何度も登っているが、岩手山は見るだけでまだ頂上には立っていない、それが悔しい。

17.賢治と私
 初めて読んだ賢治のお話は「風の又三郎」9才頃のことだった。西日の当った大人の本箱の中に見つけてページを捲り、数枚読んだだけですぐに戻してしまった。難しい旧字体と仮名遣いに突き放された。それでもまだ子供の読む本の少ない時代だったので、何度も挑戦して読み終えた時は誇らしかった。又三郎と地元の子供達との交流の輪に誘い込まれながら親近感を覚え新しい友達が多勢できたような気になり、その後も何かにつけ友達と親しみが益すように楽しんだ。色々読み進むうち、賢治も偉大な作家というよりは賢治君として友人の一人になった。面白いお話をいっぱい聞かせてくれる友達だ。学校教育を通る前に賢治に出会えたことは非常に幸せであった。知識として覚えるのではなく、読んだままに、年相応のレベルの感覚で取り込めばそれで良かったし、賢治界に夢中で遊ぶことで豊かな心になれたし、始まったばかりの思春期を過ごす上でいい目標になった。
 多分、賢治に対するこのような感覚は多くの方々も経験なさっているのではないかと思っている。愛好者というよりはみんな賢治君と友達になっている。
 盛岡中学以来賢治と面識があった赤い鳥の画家深沢省三は賢治のお話に多くの的確な挿絵を添えて多くの人々も賢治界に引き寄せたが、一人の無能な弟子として、僕はああでもないこうでもないと賢治と話合いながら賢治界のイメージを探し求めていた。真面目な研究者諸氏からはこっ酷いお叱りをいただきそうな作品を私は制作している。69才の泣き笑いだ。

16.まだまだ続く夏の思い出
 ちょっと涼しくなった途端、心はすっかり秋を向き、あれ程暑かった現実感はもう消失した。これまで体験したこともないという九州や関西の大雨、猛暑と少雨の東京、悪質すぎるイジメや虐待、シリア紛争と山本美香さんの壮絶死、原発稼働反対デモ、オスプレイ配備、そして家庭内の日常も、その後に続く荒浪に掻き消され、心と頭の一角におき考える前に遠のいてしまう。
 それでもこの夏はこのような社会に耳目をしっかり向けながら、春までに予定している4つのグループ展と個展の制作に時を送った。この夏の事々を体内に取り込み、少しずつ意識を刺激し、感性の幅を拡大しながら、現実に眼を背けることのないように想いながら。
 常々考えていることだが、思想も宗教も人々の生命を奪うものであってはならない。
 狂信し、先鋭化するのではなく、様々な宗教と思想は美術や音楽と同じようにそれぞれ一つの文化として受け止める。そして心の多様な反応力を育む素材として受容すべきものではないのか。人々の心を潤し共存共栄に向う時思想も宗教も文化としてリベラルな姿になる。宗教や思想の優劣ではなく、要素の多くを多元的に取り込むことではじめて確かな接点を持てるようになるではないか。これまで失われたあまりにも多くの生命、その大半は人々の誤解と無理解がその根本因ではなかったか?
 思想、宗教、政治家、インテリに疑念を向けながらこの夏は制作に過ごした。
 妻の叱咤激励がありがたかった。

15.「コドモノクニ」(東京社、1921~44、全287冊)を御存知ですか?
 そんな変な国は知らないよとおっしゃる方は是非一度お訪ねください。知らないままにしておくと後悔しますよ。近代化という意識が社会に取り込まれるようになって文学も美術もアカデミーから切り離されて自由に表現されるようになった大正ロマンの時代に目覚めた大人達が本気になったのが「コドモノクニ」なのです。
 その編集の中心にいた鷹見久太郎は東京社の前身の近時画報社で国木田独歩と出会って以来、多くの文化人と知己になり雑誌を作った。現代に活躍している若い人々を積極的に登用していたが、「コドモノクニ」にも多くの若い可能性が関わった。
その一人、東京帝国大学で哲学を研究し児童教育に強い関心を寄せていた倉橋惣三を編集顧問に据え、童画家岡本帰一、清水良雄、武井武雄、詩人野口雨情、北原白秋、西条八十、音楽家中山晋平など多様な意識と眼を捉えている。武井はデザインを担当し、新しい時代の絵本にふさわしいイメージのタイプフェイスを創り上げて旗手となり、多くの画家達は普段の制作からは想像もできないような斬新な童画世界を大胆に描き出した。詩人達は子供の中にとび込んで言葉を見つけ出し、音楽家は子供達の呼吸域を考えて曲作りをして空に流し、時代の空気をモダンにした。
 当時、画家にとっても詩人にとっても童画や童謡は決して本業とは言いたくない面ではあったが、作家間の葛藤の中で、若い感性を向け放って活動するうちにそれぞれの童画界、童謡界を築いてしまった。
(コドモノクニ展 ~9月2日まで 多摩美術大学美術館 TEL042-357-1251)

14.そう思いませんか
 近頃、ギャラリー廻りが楽しくなってきた。特に女性アーティストの作品に見るべきものが多い。見終わった後々まで心に残っているのは、ほとんど女性の仕事。無用に他人の眼に煩わされることも少なく、自らの感性を育て上げ身辺を隈無く観察していて、鋭い感覚に切り取られたままの明確なメッセージに話し掛けられ時を忘れてしまう。先日も2人の女性作家の日本画とイラストレーションに感じ入るものがあった。男眼には見落してしまいそうな風景を描き切っていて、帰り際に「ありがとうございます。」と言って先に頭を下げたのは勿論私の方だった。
 ようやくこのような女性作家が多く見られるようになったのは女性自身の意識が高揚しているからに違いない、元々、男性中心であった美術界では指導者の多くは男性で、その眼が一方的に女性にも向けられて男性界に引きずられてしまう傾向があった。女子学生の珍しかった美術大学も、現在では、大学によっては70%に近く、男性専科であった彫刻科でさえ女性専科に変わってしまいモチーフもテーマも素材も多様化、女眼の鋭さが大きな変化をなしとげてしまった。
 女性の存在感は強まり、男性中心の時代とはまるで異なり、女性の感性が生活の隅々まで入り込み、これまでは一方通行気味であった美術界もようやく男女交流の時を迎えようとしている。
男の眼を通すもの、女の眼を通すもの。同じものを見ていても異なるものを見ている不思議。

13.富士山て?
 富士山ほど人々の心を惹き付け続けている山はない。
 日本画、洋画を問わず、どれほどまで多くの画家が圧倒的に美しい姿に心をくすぐられてきただろうか。画商は抽象画の作家にさえ富士山を描くように持ち掛けるという。銭湯の浴室いっぱいに描かれる国民的な山ではあるが、さて富士山を描いた名画はと言われると、なるほど、誰が見ても富士山の姿には間違いはないのだが何か収まり過ぎていて厭味を先に感じてしまうのは何故だろうか。いくら作品の前に立ち居ても観る者を呼び込む実在感がない、リアリティが見えてこないのだ。
 これまで見聞してきた作家の中で3人の名を挙げたい。葛飾北斎(1760~1849)、富岡鉄斎(1836~1924)、深沢省三(1899~1993)。北斎と鉄斎については言に及ばないが、深沢省三については未見の方が多いと思うので紹介したい。優れた素描力を以て21才から「赤い鳥」に多くの挿絵を描き、戦後には市民デッサン教室、児童対象の日曜図画教室、岩手大学教授として岩手県の美術教育発展に寄与し、昭和40年からは居を東京に移しキンダーブック等の挿絵を描き、本格的に富士山を描き始めたのは山中湖に別荘を構えた昭和53年79才からの約15年間であった。深沢さんの視力と体力は晩年まで衰えることはなかったが、その眼を富士山に向け続け観察し、そうして得た富士山を画き切った。
 気温を描き、風の変化を描き、見る人を夏の富士山に厳冬の富士山に誘い込んだ。
 富士山のリアリティを描写し尽した最初の画家だと思う。

12.
 アートをこよなく愛する市民の気持ちから出発した第一回西湘地区アーティスト イン レジデンスは話が持ち上がった当初から長い準備期間、開催期間の対応の一切が、関係市町村、協賛団体、お手伝いの方々の心遣いの行き届いた手造りの中で行われた。国内外から御参加いただいた12名のアーティストは、このような配慮と雰囲気を察知して、公開制作やワークショップに精一杯の仕事振りを見せていた。
 公開制作では、手狭な環境と限られた短い制作時間の中で作品のテーマやモチーフ、画材や道具の話など見学者の質問に丁寧に答えながら、普段は見ることのできない制作現場での作家の意識や気持を伝え創造の不思議を惜し気もなく披瀝して現代美術の醍醐味をわかり易く解説するのに余念がなかった。
 小学6年生を対象にしたワークショップでは、いつもと異なる体育館の様子に興奮気味になっている子供達の感性を刺激し、共に絵具まみれになって多勢の力を一つの巨大画面にまとめ子供達に一生の思い出になるような充足感を与えた手腕と説得は見事であった。
 美術界は、価値判断の定まった過去の美術を優先し、現代美術と一線を画しているような観があるが、特にアーティスト イン レジデンスのような形ではまた別の面白味が満ち満ちている。同じ時間帯で呼吸し、眼を向け観察している現場には創造の軌跡が生暖かく、ハラハラドキドキの一体感を持たれた方も多かったと思うが、これこそアートの魅力に他ならない。
 次回に向かって気が逸ってくるのは僕だけではなさそうだ。

11.童画のこと 深澤省三のこと
45年前、大学の講義でデッサンの手ほどきをしてくださったのが「赤い鳥」(鈴木三重吉主宰、大正7年発行)の挿画家深澤省三さん(1899~2003)であった。深澤さんについては何も知らないまま石神井公園近くのアトリエに伺い色々と見聞きをしているうちに戦前戦後を通じて多くの絵本や雑誌などに筆を執っていられることを知った。手元に保存されている原画を拝見することが出来た。そして驚嘆としか言いようのない感動に襲われた。
卓越した素描力、美しい色遣い、小気味のいいリズム、大胆な誇張を感じさせない実在感、モデルの多様な表情など童画の原画として押入れに仕舞っておいてはならない絵画作品に他ならなかった。大変なものを見てしまった興奮が沸々と湧いてきた。さてさてその後、何度もアトリエを訪ねることになったが、童画は生活のための副業であって油絵画家としての立場を崩すことはなかった。それでも50年間以上も技術の全てを傾注してきた童画世界は深澤さんの画歴にとって決して欠くことの出来ない表現世界として考えるべきであることを何度となく進言し、「深澤省三童画の世界五十年」(昭和63年)を実現させることができた。「赤い鳥」、「岩手日報」、「キンダーブック」、「子供之友」などに掲載された童画の原稿など約500点を展示することができたが、初日、深澤さんは会場に入るなり千変万化の表現に、いきなり「これって誰の作品!」と言ってみんなを笑わせると「上手いもんだネ~!」と発して静かに見入られてしまった。
これで童画も芸術になったと確信できた。

10.若き画家たちからのメッセージ展
今年も「若き画家たちからのメッセージ」展の時期がきた。14回という回数を重ねているが、こんな珍しいコンクールは他所ではちょっと真似ができない。須藤館長夫妻がポートフォリオを見ながら長い時間を掛けて執拗に面談を繰り返し若い作家の創作意欲を刺激する。作家はこのコミュニケーションをもとにアトリエに戻り出品作品を制作するのだが、ポートフォリオにあった甘さはすっかり消え、そこには自問自答する姿が見えてきて面白い。このような自分の言葉と世界にこだわり続けた作品に接していると、作品の中を彷徨し、一巡しているうちに作家とすっかり打ち解けすごく暖かい気持になっている。未知の世界に入り込むことほどハラハラドキドキするものはない。作品を一点ずつ見終わった後の気持はちょっと例えようがないが、急に友達がいっぱい出来てしまったような気持である。大切な時間を過ごすってこういうことなんだと思う。
毎回、初日のレセプション会場で発表される受賞者は過去の受賞者も加わった須藤館長夫妻との議論があって選ばれるが、このときの緊張したコミュニケーションが面白い。
互いの眼と感性が束の間激しく交叉する予断を許さない張りつめた雰囲気を維持したまま同時代、同世代の中に作家を見つける作業が続けられる。
これまでに多くの若い作家が育ち活躍しているが、その仕事振りは社会の中にしっかり接点を見つけ足場を築いている。続けてきた甲斐があるというものだ。
若者たちの心の中を彷徨し多勢の友人をつくってみませんか。「若き画家たちからのメッセージ」展はとにかく楽しい。

9.クレヨンと水彩絵具
クレヨンや水彩絵具は出会いの早過ぎた幼い恋かもしれない。幼年期、使い勝手も思うにまかせずクレヨンの綺麗な箱のセットがその日のうちに不揃いになった無惨な姿、独特の非日常的な香りと感触。夢中で描きまくった最初の図画の表と裏を記憶していますか。
上手さを意識するようになって来た頃の水彩画時代を抜け、美術を専門に学ぶ時代には旺盛な研究心が油絵に向けられ、次第に深入りして行く。そのうち意識からクレヨン画も水彩画も通過点として遠ざかり、表現の主材料として画家の手に呼び戻されることはきわめて少ない。多くの人々が幼児教育のプロセスの中でいやという程触れながら、更なる好奇心へと継続して行くことも難しい。専門店ですら油絵具がほとんどで、国民的画材とでも言っていい筈のクレヨンや水彩絵具は遠慮がちに並んでいる。色数も豊富にあって、無心に語り掛け、絵心を刺激しているではないか。油絵に精通した手と眼を休めて、ただ通過してきただけだったクレヨンと水彩絵具に眼と手を向けてみてはどうだろうか。使い熟されることもないままに何時か失ってしまったクレヨンと水彩絵具。もう一度取り寄せて油絵具と同じようにパラレルに接してみてはどうでしょうか。
意識の外で長い時間止まったままでいたクレヨンと水彩絵具を現在のあなたのすぐれた眼と手によってあなたの中を動き出すチャンスを見つけてはどうでしょうか。