白いノート 髙橋玉恵

21. 白いノート
 半年ほど前から整体に行き始めた。からだ全体のバランスが整う感覚は心身共にすっきりとして気持ちがよい。静かな音楽とアロマオイルの香りに包まれながら、ふと気がつくと目の前の壁が真っ白で、少しさみしい気がする。ここに何気なく絵があったら、とつい思ってしまった。
 体のどこかに不調をかかえて訪れる場所、病院やリハビリの施設などに、もっと積極的にアートをとり入れたら、と思うことがある。最近では、病院の廊下やロビーに絵が飾られていることもあるが、その数はまだ少ない。
 アートが医療の分野に生かされている例として、スェーデンでは病院建設予算の一定比率をアートに使うように法律で定められており、単に壁を飾るだけでなく、治療を受ける人の気持ちを考えて随所にアートを配置し、活用している病院の様子が紹介されていた。
 日本でも医療とアートの関わりに着目はされてはいるが、まだそこまでの実例は少ないのが現状ではないだろうか。痛みや不安をかかえる場所でアートが果たせる役割と、その可能性をもっと広げていくことができないか、考えてみたいと思っている。

20. 花に
 今年は例年になく大輪の紫陽花が身近に見られて、梅雨時のうっとうしい気分をすっきりとさせてくれる。季節の花々や木々の緑の生命力あふれる姿は、通勤途中や仕事の合間、そんな日常のひとときであっても、ハッとさせられるものがあり、エネルギーを与えられる。
 花の咲く表情や木々の枝ぶりなど、自然の美しさは人間には描ききれない、と聞いたことがある。作り物ではない自然は、時に驚くほどの絶妙なバランスや色彩を見せ、その姿や光景は一瞬にして人の心を動かしてしまう。そんな時、かなわないなあ、とこの話を思い出す。
 しかし自然の美しさにはかなわなくとも、日々目にするその自然からもらった力で、見る人の気持ちになにかが響くような強さを持った作品を描くことは出来るのだと思う。
 以前住んでいた鎌倉の線路沿いに咲く紫陽花が好きで、毎年車窓からお花見をしていた。今年も白い花を咲かせているだろうか。

19. ふみだす
 春、桜の季節を迎えた。4月は心機一転し何かを始めたくなる。毎年、新しい英会話番組をひとつ決めて見始める。英語は好きなのだが、会話の機会は普段ほとんどなく、たいして上達しないまま、恐ろしいことに10年も経ってしまった。そもそも日本語でしゃべることもあまり得意ではないので「向いてないのかも・・・」と気づいたのが何年前だっただろうか。
 ずいぶん前になるが、英会話の悩みをある人に話した時に、「あなたが学ぶべきは、会話のノウハウではないような気がする」と言われたことがあった。その時はよく意味がわからなかったが、その後日本で海外の作家を案内していた時に、大事なのはコミュニケーションをとろうとする姿勢なのだと思いあたった。自分の伝えたいことを、心を開いて、たとえ短い言葉でも発していくことがお互いの壁をなくし、言葉以上に気持ちが伝わることを感じたのだった。
 英語でも日本語でも、コミュニケーションをとり相手を理解しようとすることは、時に難しいが、大切なことだと思う。そしてお互いにわかりあえた時は嬉しく、また楽しい。英語も地道に聞き続けながら、今年はもう一歩先へふみだしてみたい。

18. 大切なことは
 昔から、仕事をしている人を見るのが好きだった。できる人はかっこいいなあ、と憧れ続けてきた。思えば、私にとっての仕事の原点はそこにある。しかし昨年は、そこからどんどん遠のいてしまうことが多く、ため息ばかりついていた。
 最近読んだエッセーの中に、北の地で薪運びの手伝いをする少年の姿が書かれていた。「薪を運びこんだ後の掃除までが自分の仕事だと、きれいに床を掃いていった。少し時間はかかるが、ちりひとつ落ちていない床の清々しさが、丁寧で誠実な仕事を物語っていた」と。日頃、早くこなすことに終始している自分を省みていた矢先、耳の痛い言葉だった。素早いことも時に必要であるが、それだけでは何も蓄積されない。
 仕事には人が表れる。いい仕事をしている人は、人間も魅力的だ。そしてみな、試行錯誤しながらも懸命に求めるものへ向かっている。憧れに、今年少しは歩みよれるだろうか。

17. 笑顔
 大槌町の光景は、所々まだ震災の爪痕が痛々しい。明るい展望が少なく、先の見えない不安が長引き、被災された方々のストレスは深刻さを増していると聞く。その問題の大きさを思うと、私たちのげんきアートプロジェクトは、本当にささやかな活動であると思う。しかし、「震災から3年たった今、忘れ去られてしまうことが一番つらい。小さなことでも続けてほしい。」という地元の方の言葉を受け、メンバー全員が力を合わせ、又たくさんの方のご協力をいただき、3回目のげんきアート展開催にこぎつけた。
 展覧会場でのコンサートの後、声をかけて下さった方がいた。「昨年、展覧会で絵を見て本当に元気になりました。いただいた絵を部屋に飾って毎日見ていますよ。」と。そのひとことで胸がいっぱいになった。被災された方から直接受ける言葉は、いつも心の奥深いところに響いてくる。そしてまた、いい笑顔に出会えた。たいへんな思いをされたことを思うと、その笑顔は本当にうれしく、かけがえのないものだった。このことを忘れずに、また作品を作っていきたい。

16. 作家と出会って
 以前私の先輩が「本当に作家と言えるのは、副業をもたずに作品だけで生計を立てている人だ」と話していた。そんなこと言ったら、日本には作家と呼べる人がほとんどいなくなってしまう、と思った。
 経済面では厳しい状況をかかえながらも、収入を得ることと、制作できる時間と場所を確保することの両立を、工夫しながら制作している作家がほとんどだと思う。たやすいことではないと思うが、それでも続けているのは、それだけ美術の世界には惹きつけられてやまない奥深いものがあるからだろう。
では何をもって作家というのか。それは確固たる意志を持って作品を作っているかどうかに尽きるのではないだろうか。どんな時も常に作品のことを考え、進化しながら新しい作品を生み出している、そんな作家たちにこの仕事を通してたくさん出会わせてもらった。
貴重な出会いは作家だけではない。共にある作品に、ハッとさせられたり、深く考えさせられたり、心に響くものを見せてもらった時、理屈ではなく作家としての力量を感じさせられるのである。 

15. ある日の午後
 先日、数年前に急逝された作家の奥様が、久しぶりに美術館に来て下さった。ちょうど、ご主人の20年ほど前の作品を展示していた。生前のことを色々とお話しする中で、その作品を制作されていた時のことを話してくださった。
 当時、体調を崩しておられたご主人は、心身ともに厳しい状況であったにもかかわらず「作品を作ることで病気を治すんだ」と言われて、まさに命をそそぎこむような勢いで一心に制作に打ち込まれていた、と。そして、とうとうその執念で病気を治してしまわれたそうだ。
 その頃の一連の作品は、すどう美術館にも数点保管されているが、どれも背筋がのびるような厳しさと強さがある。しかし威圧的な感じはせず、どこか楽しい気持ちになるくらいの優しささえ感じる。思い返すとそれは、作家ご自身の姿そのものだ。いつも厳しいことばで作品について語られていたが、そのなかに大きな優しさが感じられる方だった。
 帰りがけに奥様が、玄関にかけられている作品を「少しながめてから行きます。」と言われたのが印象的だった。

14.必要なこと
 「次々とホシイモノに出会ってしまって困る、だからすどう美術館には行きたくない」と言いながら、展示が変わるたびに来られる方がいる。きっとここから巣立った作品たちは、嬉しそうに壁にかけられ、楽しい空間になったことだろう。
 「車やカメラを買うのと違って、何の役にも立たないのにと思いながら、どうしても惹きつけられてしまう作品がある」という。確かに実用品と違い、作品は役に立たない。しかし日常の空間の中に好きな作品があると、ちょっと幸せになる。そして、時に気持ちが救われることもある。
 実用的でないものはどんどん省かれてしまう昨今である。しかし、理屈ではなく心をとらえてはなさない、アートは不思議な力を持っている。そしてそれを感じることは、とても必要なことなのではないかと思っている。

13.実感する
一年ぶりの大槌町の状況は、ほとんど変わっていなかった。今年も一週間あまりの滞在だったが、所々に壊れたものが残り、店も家もない景色とともに過ごしていると、かつての日常が失われたままであることを実感させる。そして、先の見通しがつかない不安な生活が長引き、地元の人達も、ボランティアなど被災地を支える側の人達も、心身ともに疲労しきっていることを多々感じた。
 そんな中、私たちの展覧会に来られて、「一服の清涼剤になった」と表現された方の言葉が強く印象に残っている。仮設商店街のシフォンケーキ屋さんでは、ミニコンサートを開いた。お店からあふれるほどに人が集まり、みな一心に演奏を聴き、「近所のみんなと気を張りつめて頑張っている毎日から、久しぶりに解放されて元気がでました」「今日は主人に優しくできます」と、とても喜んでくれた。この土地の人たちがみな、どれだけ怖い思い、悲しい思いを経験し、それをかかえながら生きているかを、ひしひしと感じさせられた。
 展覧会やコンサートがこうして心をやわらげるひとときになったことは、何よりも嬉しい。この活動を通して、絵や音楽の役割をあらためて実感させてもらった。そして笑顔で頑張っている大槌の人々と出会い「人って強いな」と不思議と心洗われるような気持ちになった。

12.楽しみ
 すどう美術館に来られるお客様にも、それぞれの楽しみ方がある。作家と話をするのを楽しみに来られる方や、作品と共に庭も楽しみゆっくりお茶を飲まれる方、週末に近隣の美術館をまわりながら来られる方。ここに来るとホッとします、よいひとときを過ごせました、と言っていただけると嬉しくなる。そして少しうらやましくなる。
 かつて私も、休日に美術館に出かけるのが好きだった。今も好きなことに変わりはないが、この仕事を続けるにつれ好きなだけではすまなくなってしまった。展示の仕方やキャプションの表示、照明の工夫、DMや資料の置き方など、どうしても日常の仕事が入り込み、作品以外のところにも気持ちが動いてしまう。それも大事な関心事であり楽しみのひとつではあるが、時には仕事スイッチをオフにして、素のままの自分で作品とゆったり対話しながら過ごす、静かな時間を持ちたいと思う。 

11.生まれかわる
 花ももが咲き、柏葉あじさいが新芽をふき、すどう美術館の庭が春の訪れを知らせてくれた。毎年この季節は、冬枯れの木々があっという間に花々や新緑に彩られていく姿から、植物の生命力の強さを感じ、エネルギーを与えられる。
 美しい新緑を見ているうちに、作品にも同じような感覚をもつことがあると思った。過去の作品から飛躍した驚きと、新しい息吹が感じられてわくわくする、まるで生まれかわったような作品を見せられた時だ。新芽のように生き生きとしたエネルギーを発している。
 ある作家が、「作品を見て、新人作家のようなみずみずしさを感じてくれたら嬉しい」
と話していた。進化し続けるのはたやすいことではない。しかし、とどまることなく常に何かを追い求める探究心の先に、気持ちよい春の息吹のような作品が生まれるのだろうか。

10.まあるい耳
 今年16回目となる「若き画家たちからのメッセージ展」応募者の面接が始まった。この展覧会を通じて、毎年美術を志すたくさんの若い作家たちと出会ってきた。
 応募から展覧会開催まで、彼らと関わることが私にとっては毎回よい刺激となる。そしてこんなエッセーの一節を思い出す。
「探しものを見つけようとしている時が一番いいのです、耳がまあるくなっていますから、、、」
 館長の面接の時や展覧会の会期中、自分の作品がどのように受けとめられるのか、これからどのように制作、発表をしていくのがよいのか、必死に聞こうとする彼らの耳はみんなまあるい。なにかを求める一心で吸収しようとするまっすぐな姿勢にハッとさせられる。
 大事なものほど見つけるまでには時間がかかるが、彼らにはその一生懸命な気持ちを忘れないでほしいと思う。そして私もまあるい耳を持ち続けたい。

9.わからなくていい
 先日、新劇の役者さんと話す機会があった。彼は長年、数多くの不条理劇で様々な役を演じており、それを私も見続けている。
 不条理劇というのは、セリフの辻褄が合うような合わないような、なんとも不可思議な世界で一見難解である。しかし、彼は「表現したいことをストレートに言うのではなく、幾重にも重ねられるセリフのやりとりや演出で表現していくことこそ芸術ではないか、よくわからなくてもよいのだ。」と言う。確かにわからなくても、毎回何か強く心に残るものがあり、それが心地よい刺激となり楽しいのだ。
 話を聞きながら現代美術の作品に重ね合わせていた。日頃「わからない、むずかしい」とよく言われるが、たとえよくわからなくても、その作品と向き合って自分の中に残った何かを感じとれれば良いのではないか。自由な気持ちで作品に触れられれば、美術はもっと楽しくなる。それを伝えていくことは、私の大切な仕事のひとつだと感じている。

8.肌で感じる
 サンタフェのアートフェアの仕事で、7月10日から1週間、久しぶりに渡航した。
海外へ行くといろいろな刺激を受けることができる。
 今回印象に残ったことのひとつは、現地のコンテンポラリーのギャラリーだった。街の中心から少し離れた場所に何軒かのギャラリーが建っている。倉庫のように大きな建物で、入ってみると天井が高く、広くすっきりとしたスペースにゆったりと作品が展示されている。ふと見ると、8mほどの壁一面に展示された大きな作品に赤丸がついている。この規模のスペースを維持していくだけの顧客を持っているということであろう。どのギャラリーも感じよく応対してくれ、展示替え作業中の作品も快く見せてくれた。アートに対する価値観の豊かさ、スケールの大きさには圧倒された。
 日本では見られないアートシーンに出会えることは、貴重な経験となる。こうして異なる国の状況を肌で感じることが、海外での一番の醍醐味であり、それによって自分の意識をどう変えていけるかが大切だと思っている。

7.その先に
 仕事が忙しくなると思い出す言葉がある。数年前、初めての海外出張がせまり緊張でいっぱいの時に、ある方から「それを楽しむくらいの余裕というか、度胸がないとね」と言われた。その言葉にふっと気が楽になり、不思議と不安よりも楽しみな気持ちの方が大きくなっていった。
 アートは人を笑顔にし、新しい出会いと交流を生み、人の気持ちを動かす予想を超える力があることを経験してきた。この時も、初めて行く土地で、アートを通じてどれだけ未知数のものに出会えるか、何よりそれを楽しみに思えたのであった。
 忙しい仕事の日常にあると、限られた時間の中でいかにそれをこなすか、つい目先のことにとらわれ勝ちになるが、その先にやってくる醍醐味を思えばどんなことでも楽しくなる。仕事ができる人ほど、忙しいはずなのにユーモアを忘れず、気持ちに余裕があると感じるのは、いつもその先にあるものをきちんと見据えているからであろう。
  アートの新たな可能性に向かって、これからも日々臨んでいきたい。

6.迎える
 スペインの作家展や、アーティスト イン レジデンスなどで、昨年は海外から作家の方々を迎える機会が続いた。さて、どのように迎えたらよいか、日本の何を見せたらよいだろうか、とずっと考えていた。
 以前私がスペインやスロベニアのレジデンスに行った時には、家族のようにあたたかいもてなしを受け、その土地でしか見られないもの、感じられないことを経験でき、充実した楽しい時間を過ごさせてもらった。
 その時にお世話になった作家がそれぞれ来られることになった。日本での再会は本当に嬉しく、一緒に仕事をし、観光し、食事をし、完璧にはいかないが日本のことを説明しながら話をした。彼らは初めての日本文化にたいへん関心を持ち、それぞれの鋭い感性で日本の風土から様々なものを感じとっていった。
 そうして日本での時間を共に過ごしたことで、お互い更に気持ちを通わせることができたように思う。それぞれの国を体験し交流するということの意味、大切さを、今あらためて考えさせられている。

5.個展に思う
すどう美術館の仕事と同じように私にとって大切なことは、作品をつくることだ。
美術館の仕事と作品制作は、自分の中で対極にあるが、その両方があってバランスがとれているように感じている。
今年は、8月末からの個展の制作時期と、美術館の仕事が忙しい時期とが重なり、時間をいかに工夫して作るか、あらためて考えさせられた。そんな時、ある芸術家の「制作していない時間の過ごし方が大切」という言葉を思い出していた。日々の全てが作品につながる、ということだ。いつもそういう意識を持っていれば、作っていない時間も制作のための蓄積となるのだと思った。
自分の作品が展示されたすどう美術館は、作品を制作する内へ向かう自分と、美術館の仕事をする外へ向かう自分とが、1つの場所で交錯するような不思議な感覚だった。そして、ここで出会う作品やいろいろな人との交流が、制作していく大きなエネルギーになっていることを、あらためて実感した。美術館の仕事と作品制作、お互いがプラスになるように、日々取り組んでいきたいと思っている。

4.慣れないこと
「さすが慣れてますね、髙橋さん」と言ってほめられたのは、作品を展示するための釘打ちだった。確かに釘を打つことは慣れているかもしれないが、展示作業は慣れることがない。個展、グループ展、出前美術館や海外のアートフェアなど、展示するスペースと作品の内容によって、無限に展示の方法がある。作品を生かした空間を作れるかどうかは、展示の仕方にかかっている。そしてどんな状況にも柔軟に対応できるアイディアが必要だ。
以前マドリッドで画廊を見て回った時、広いスペースに1点だけの作品、そんな展示を数々見かけた。空間そのものが作品の様で、スケールの大きい展示の仕方に多くの刺激を受けた。
作品とともに空間そのものを楽しめるような展示をするためには、既成概念にとらわれず、アイディアの引き出しをたくさん持ち、常に感性を磨いておかなければならない。これは展示に限らず、どんな仕事にも共通する。慣れることなく、新しいアイディアを探していくこと、きっとそういう気持ちが仕事を楽しくする。

3.見えない力
「いいねえ、あなたは毎日ここにいて絵を見られて。」
年に数回地方から上京し、すどう美術館に来られて絵を見るのを楽しみにされていた方から、以前言われた言葉である。いつもゆっくりと絵を楽しんでいかれたのが印象的だった。
仕事場に作品があることに慣れてしまった私は、こんなお客様からの言葉にあらためて作品の力を実感する。それは、すどう美術館で働き始めてずっと感じてきたことだ。仕事の日常は、ゆっくり絵を見ている余裕もないことが多いが、作品がある空間にいるだけで、気持ちが元気になったり、沈んだ気分をやわらげてくれたりする。いつもここにいながら、作品の見えない力に助けられてきた、と感じている。
先月の震災から数週間たったころ、「しばらく外出する気になれなかった。」という方が来られて、久しぶりに絵を見てほっとし、気持ちがやわらいだ、と言われた。同じ声を何人もの方から聞いた。そして、国内はもちろん海外のアーティストたちからも、こんな時こそアートの力を生かしたいという気持ちのこもったメールを、たくさんいただいた。その気持ちを結集させて、どんな形で何ができるか、と今考えている。